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『親鸞和讃』を読む ―弥陀の名号となえつつ(3)― 瓜生崇師

2022年5月26日(木)19:30~ 真宗大谷派大津別院
『親鸞和讃』を読む ―弥陀の名号となえつつ(3)― 瓜生崇師

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【質問コーナー】
・言葉以外で本願を知ることは出来ませんか?
われわれが言葉で迷っているということをいったのは龍樹。一切平等、空の世界が実体があるように思うのは言葉による。仮名。
生き残るために言葉が生まれ、自我、他人が現れた。自分にとっていいもの悪いものを分けていった。われわれは言葉の海の中でしか生きていけない。
言葉を以て言葉を超えた世界を見ることはできない。空もまた空だ。
仏教は真如の世界を言葉を重ねてきた歩み。永遠に終わらない歩み。大乗仏教は永遠に未完成。
迷っている者はさとりを目指し(往相・如去)、覚った者は迷いの世界に来る(還相・如来)。いって必ず還ってくる。
観仏:『観無量寿経』では韋提希が仏を見ることによって無生法忍のさとりを得る。
阿弥陀さんが南無阿弥陀仏になったのは、底のところにわたしがいたからだ。

本編
「弥陀の名号となえつつ
  信心まことにうるひとは
  憶念の心つねにして
  仏恩報ずるおもいあり」(冠頭讃【真宗聖典】478頁)

「一七 たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。
一八 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。」
(『無量寿経』上巻【真宗聖典】18頁)
われわれ衆生に本願を信じて南無阿弥陀仏とお念仏申してくれと法藏菩薩が願う。
法藏菩薩の願いは、十方の諸仏の本当の願い。徹底的に諸仏に聞いた結果。だから諸仏は褒め称える。

わたしからみたら自分を目覚めさせるためにありとあらゆるいきとしいけるものが目覚めていく。その先に法蔵菩薩もいる。
自分一人のすくいがありとあらゆるもののすくいに転じた瞬間。
自利利他円満。
「法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり。」
(『唯信鈔文意』【真宗聖典】554頁)
言葉でないとわれわれの硬い自我を通過できない。真如の世界がわたしを目覚めさせるために宇宙全体を使ってことばとなった。
尽十方無碍光如来=弥陀の名号

憶念:心に留めて忘れない。
でもわれわれは忘れる。

「「聞名念我」というは、「聞」は、きくという。信心をあらわす御のりなり。「名」は、御なともうすなり。如来のちかいの名号なり。「念我」ともうすは、ちかいのみなを憶念せよとなり。諸仏称名の悲願にあらわせり。憶念は、信心をえたるひとは、うたがいなきゆえに、本願をつねにおもいいずるこころのたえぬをいうなり。」
(『唯信鈔文意』【真宗聖典】551頁)
憶念は、わたしのこころはあてにならないけど南無阿弥陀仏が聞え続けるということ。
わたしのこころはぐらぐらだから仏さまがわたしの信心を護ってくれる。

南無阿弥陀仏から逃げられない話。自分は聞きたくないなと思うことがあっても完全に離れたことがない。でもお聴聞をしていると戻ってきた人に会う。自分が続いているのは聞え続けているからかもしれない。
憶念がやっとそうなのかと思えた。自分は南無阿弥陀仏を忘れる。生活の中で。でもその間も聞えているんだ。まわりの人が仏さまの役割をしてくれる。この話を聞いたときはそう思える。でも生活ではそう思えない自分を思う。

 

◆直近のシリーズ

 

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