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本光寺 歎異抄を読む 第十一条(1)

『歎異抄を読む』 第十一条 本光寺 瓜生崇師

2023年8月7日(月)19:30~21:00

shinshuhouwa.info

師訓篇 一条~十条

歎異篇 十一条~

ということで今回から歎異抄で唯円が訴えたかった本筋の歎異篇へ。

全員で音読するのはいいな。第十条の「「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。」までが師訓篇。

第十一条

一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。」(【真宗聖典】『歎異抄』630頁~631頁)

今までと比べて長い。句点が多いのは、「誓願の不思議」と「名号の不思議」が別であるということではないから説明を切らないのかもしれないな。

教えは曲がっていく。親鸞聖人が20年関東で布教して出来た教団であっても親鸞聖人がいなくなったら迷っていく。自分はお聴聞をして4年くらいである。揺るぎないのかというといろんな人の話を聞いているとこれって同じ真宗なのか?と思うことも正直ある。この話が正しいっていい切ってもおかしくなるし、閉じた世界で喜び合っていてもおかしくなるし、我が道を行ってもちょっとずつ違っていくんだろうな。

自分の言うことと違う事になっていくことを親鸞聖人はどんなお気持ちで見ていたのだろう。何度もお手紙や『唯信鈔』とかを書き写したものを送られていたようだけど、そういうのが伝わらない哀しみ・・・なんだろうな。

でもそれが悪いことだけではなくて、大乗の流れが出来たようなこともあるわけだし、なんとも言えない。でもやっぱり自分には聞いていく中でそうだなあと思う話もあれば、全然法話に聞こえなくてもやもやすることもあるわけだ。そういうのが混ざるのが健全なのかも知れない。

法話中に御同行が講師の問いかけに応える。そういう雰囲気も良い。みんな聞きながら考えている。自分はどうだと。わからなくて口に出る感じ。自分が聞いてきたことといまここで聞いていることがつながるのかどうなのか、勝手に手探りしていていろんなことが湧き出るよね。自分もそう。

 

考えたいことー幼児往生。赤ちゃんは往生できるか、できないか。自分はすべてのことは往生しているかどうかわからないとしか言えないなあ。でもそれをストレートに遺族に言えるのかどうか。

もっと手前で浄土に往きたいと思う心もないのであった。

 

・至誠心・深心・回向発願心 がなければ往生できないという法然上人。でもそんな心は一切ないという親鸞聖人。

 

いっぱい扇風機があって風の中で涼しくお聴聞していた。聞いている自分に起ってくる気持ちも吹き上げられた。今日は感想。

 

次回は第十一条の続き。

◆本光寺

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