如是我我聞

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『超越と実存』超越と実存―「無常」をめぐる仏教史― 南直哉

『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―』 南直哉 新潮社

 

 いい。南師の本はいい。今回は南師が自分が向き合ってきた「仏教史」なのだ。曹洞宗の話だけではない。密教、浄土宗、真宗だって自分の「読み方」を見せてくれているのだ。ここに書いてあることを「仏教史」として真に受けてはいけない。自分はあくまで南師が向き合ったものを横で聞かせてもらっているのだ。そこに正しい、正しくないはないとかはいらない。まあぶっちゃけ真宗のところはもうちょっと一緒に話したい感じだけど。それを思うと浄土宗も密教系のみなさんも同じ思いだろう。

 自分と感じが似ているなあと思ったのは、

仏教思想の核心にある問題は、言語、より正確に言うなら、言語において意味するもの(言葉)と意味されるもの(経験)の間にあると考えている。

これが言葉になるようでならないものの感じがする。

そして「わたし」というものの認識についても、昨日今日明日のわたしが同一であると証明出来ないと無常に言及する。

 親鸞聖人について、彼にとっての「信」は、簡単に前提とできる問題じゃないだなんてどきどきする。

親鸞に引用された『涅槃経』の部分には、五逆、謗法、そもそも善根を断たれたもの(一闡提)は、声聞・縁覚など「小乗」の聖者や、大乗の菩薩では救えない、という趣旨が述べられる。ということは、言外に「大乗」の如来なら可能である、と聞こえる。

うわーーー!聞えるのか!!!

 あと、道元さんも親鸞聖人と同じで経典読み替えをされているらしい。ああ、こうやって自分で読む人たちなんだ。自分で考え、お聖教に向き合う。根本的なことを本を読みながら教えてもらう。

 自分で考えるって大切だ。とかく「正しい人」に「正しい」っていってもらいたがるものだ。