2022年1月10日(月) 14:00~15:30
大谷婦人会定例法話「本願から除かれる身」 真宗大谷派 瓜生崇師
【本願とは】
・”私の名前を呼んでくれ”
・南無阿弥陀仏と名乗っておいでです。 曾我量深=南無阿弥陀仏という名告
・木像でも絵像でもない
・名前とものは別々だと思ってるが、仏に付けられた名前が仏様ではない。南無阿弥陀仏という名前が仏様。
・先ほど南無阿弥陀仏といったのは、仏様の願いに応えてわたしたちが称えた
【すくい】
・なんでそれがすくい?
・浄土真宗は南無阿弥陀仏とお念仏する以外になんもない
↑↑↑どうしてこの願いをたてたのか。多くの人が、七高僧がむきあってきた。
・お聴聞はなんで南無阿弥陀仏が救いなのかここで阿弥陀様と向き合ってる。
『観無量寿経』
観仏:心の中で仏さまを観る。韋提希にすすめる釈尊 観る人の人数だけの仏さま。本当の仏様はいない。
散善:生き方 いいことをする生き方。
宗教はこころのすくいではない。お釈迦様は、違うという。あなたのこころはあなたのもちものではない。自分のこころが自分だと思っているが、そうではない。
わたしはどこにいるの?わたしはだれ?
こころ=機 機械の機。
自分の怒りや気持ちは自分で起こしていない。次から次へと湧き上がってくる。外からの影響で変わっていく(機械と一緒)。
この「機」の例えはすごく好きだ。以前もお聴聞で聞いて良かったんだ。
散善を聞いても、自分の生き方を変えていけるだろうか。
親鸞聖人は、なんであなたは本願に遇ったんですかときかれ、「たまたま」だとおっしゃった。仏法聞ける生き方が出来ているのは、たまたま。たまたま結婚した人、たまたま門徒の家だった、たまたま寺に生まれた。自分では決められない人生。
ここで気がついた。
今日の瓜生師のお話は、大変語彙の説明が丁寧。ある意味ゆっくり(しゃべるスピードはいつも通り)。ここのお話で、一番前の真ん中で聞かれている大谷婦人会の会長である大谷サチカ氏が頷いて聞いておられるのに気がつき、「ああ、これはこの方に伝わるようにお話をされているのだな」と思った。日本語が多分すごくはお上手ではない日系二世の方だからだ(知らなくてGoogleで調べた)ご門首の奥様。
念仏:
『観経』の最後に、仏さまを観ることもできず、生き方を決めることも出来ず、仏さまを信じることも出来ない人が出てくる。
普通の人は仏教聞かない。くる人はまれ。葬式の時だけ。最後の最後に出てくる人は、自分がいよいよ死ぬときに仏教を聞こうとする。
「善知識」は、阿弥陀さんをちゃんと念じろという。死にかけている人は、仏さまを念ずることも信じることも出来ない。「善知識」はそこで「善友」になり寄り添う。できないなら、一緒に仏さまの名前を呼ぼうと南無阿弥陀仏を十回称える。地獄行きの悪人は救われていった。
『観経』のボリュームからして観仏が一番、念仏は数行。念仏はギリギリの人が称えたらいい。
法然上人は、
三学非器 自分の中には仏教で教えられていることが一つも出来ない。
南無阿弥陀仏と名を称えることでしかわたしは仏さまの願いに応えることが出来なかった。とおっしゃる。
親鸞聖人は、阿弥陀さんが本当に南無阿弥陀仏しろとおっしゃっているのかを人生の大半をかけて向き合っていく。『教行信証』はなぜ南無阿弥陀仏が「わたし」の救いなのかを書いてある。これが浄土真宗。浄土真宗で聞く事はひとつしかない。「なぜ南無阿弥陀仏と阿弥陀さんを呼ぶことが阿弥陀さまの願いなのか。なんで阿弥陀さんは南無阿弥陀仏とわたしのことを呼んでくれ、このひとつのことをわたしに願われたのか」これを生涯を掛けて聞いていく。これが仏法聴聞。
隣の席のご高齢の女性(まあおばあちゃん)が、法話の間中笑ったり、瓜生さんの問いかけに応えたり、それは楽しそうに聞いていらっしゃった。隣にいる自分もまあ楽しくなってくるのだ。お聴聞は自分が阿弥陀さまと向き合ってるのだけど、隣の全然知らない宇宙の中にいる他人が聞いていらっしゃるのを感じるのもまたいいな。場にいないと他者の頷き、声にも気がつかないものな。今回は場にいられてよかったなと思った。今年最初に、浄土真宗で「聞くこと」を新たに思った。