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本光寺 歎異抄を読む(2)(瓜生崇師)

2020年10月12日(月) 19:30~21:05

本光寺 歎異抄を読む(2) 瓜生崇師

shinshuhouwa.info

  ご縁があって、初回にいったのだからまたいこうと第二回に参加。

 本日も歎異抄 第一条の続き。というか、「弥陀の誓願不思議に・・・」までなのである。でもここはお釈迦様の覚りと弥陀の誓願=本願が同じことであるという大事なところ。第一条が総べてて後の条はその詳細とも言える。

 

 お釈迦様の覚りということで、お釈迦様の生誕から覚りを得て、梵天勧請までを話される。四門出遊、無明のわたし、差別するわたし。

 「わたし」ってなにか。大概の人は「わたし」の正体は「わたし」の心や!という。

 わたしの心=機。

 車はアクセル踏んだら進む。ブレーキしたら止まる。外からの働きかけで動く。まちがいないわたしの心は外からの働きかけによって出来上がったもの。

 

 以下はそこから止まらなかった自分の中。 

 外からのもので自分が出来上がっている。

 他人のことを思う。例えば自分の苦手なあの人。嫌いだ。どうしてああなるのかわからない。あの人も今までの人生を生きてきてああなってるだけで本当はなにもない。生きてきたからそうなった。そういうこともあるよな。

 他人のことなら「自分」と思っているものなんてない。経験、外からのはたらきが積み重なってそんな人になった。そうだなって思えるみたいな「わたし」がいる。

 自分の中になにもない?いや、それは絶対ない。間違いないわたしがあるだろ。

 でも、からっぽのわたしもわかる。そうかもしれない。ぞわぞわする。周りの影響で変わり通しのわたし。

 からっぽだ、くるしいとおもっているわたしは、なんだ。

 わたしがないっていうことにきがつくって、なんだ。わたしがわたしとおもっていないわたし。

 そんなはずじゃない。でも、そうかもしれないっていうという一閃がもうそこまできているようなきもする。でもそんなのはわからない。 

 他人ならそうみなせるけど自分がなにもないなんて頭で理解してもその瞬間から思いが止まらない私がいる。その両端を高速で思考が往復する。どういうことだ。

 この腹の底にあるものはなんなのだ。

 わたしに話を聞かせるこれが、ここに向かわせるものが、ある人は法蔵魂と呼ぶのだろうか。これが阿難を起たせて、梵天勧請させて、広い世界に出遇いたいと動かすのか。

 今日はなんでもないだろう機の話から一気に自分の中の思考が広がって止まらなかった。

 一緒に行った友だちは、無明と分別のところ。同じ話を聞いていてもやっぱりそのときそのとき聞こえてくることはそれぞれなのだなと思った。

 お釈迦様は、自分だけが救われても救われないことに気がついた。みんなが救われる世界でないと。真っ暗な独りぼっちの世界にいるわたし。だからわたしも友達も、聞いているのだろう。わたしが目覚めなければならない。だから届く南無阿弥陀仏。

 友達が言った。「もうちょっとでつかめそうになるのに話が進んでいってああああああってなる。」そうだな。自分もそうだった。自分の中がすごかった。

 

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