如是我我聞

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『他力本願』/金子大榮 悲しみの中の光

『他力本願』 金子大榮 非売本

 法友にいただいた本。

 昭和23年8月に金子師が日本アジア協会にて「真宗について」講じられたものの書き起こし。昭和25年11月に全人社から発行されたものをあるお寺が復刻されている。

 

 その内容をいちいち書き連ねるのではなく、自分の感想だけを。

 金子師の著書は岩波文庫の『教行信証』しか読んだことがないが、望みがない(あえて絶望とはいわない)ということがひしひしと伝わってくる。そしてすごく仏法に対しても真面目な金子師が見える。

 平等はここに実現することがない、一般に慈悲というものは愛着(人間愛)に勘違いされるが本当の悲しみを通してでなければ慈悲は感じることができない。愛憎を超えた悲しみに慈悲が感じられる。罪悪深重とは愛と憎しみ。ニヒリズムに満ちあふれた言葉が繰り返されるのだけれど、どうしてどうして彼の中にすくいがあるのだ。「われわれの悩みは善悪の悩みである」というのがすべてを表している。

 念仏に関しては、南無阿弥陀仏で宗教感情を呼び起こすことが出来るという解釈に驚いたのと、そうするとまあいまSNSでもやたら南無阿弥陀仏で埋まるスレッドを見ることがあるけど、そういうのもあるのかなと思う。ちなみに自分は挨拶的な南無阿弥陀仏には返事をしない。それも変なこだわりなのかもしれないが、とりあえず、今の自分はそれができない。

 仏になる=涅槃に入るということは、人間が死に切るということ。「死に切る」ってすごく迫ってくる表現だ。これは現世正定聚の話になると思うが、死ぬものとして名残惜しんで生きるということ。これは本当に望みがないという気持ちからの発想だと思う。自分が今感じている南無阿弥陀仏は安心して絶望するということ。名残惜しむということは、安心しないと出来ないと思う。

 還相回向について、引用。『歎異抄』の意訳かららしい。

われらの祖先は皆われらの念仏の上に来て下さる。そうすればわれわれも死んだならば念仏する人の上に現われてゆこう。私はその時には涼しい風となって窓から入りましょう。そっと音もなしに。「われは金子だぞ」といえば逃げられるに違いありません。金子などという名前は捨ててしまって、身も名も捨てて、ただ一つの空気として書物を読んでいる学生のところに、私はこっそりと名告も上げず、姿も見せないで現われてゆこう。

なんというか、この部分に金子師の悲しみを感じずにはいられない。悲しいんだけど、それで終わってない。今の自分に望みを持っていないのに、光がある。この本は全編、そこはかとない悲しみでいっぱいなのだ。でもそれだけじゃないんだ。

 

 今日友だちから連絡があった。娘さんがそろそろ就職活動で、親の思ったところと違う方向へ行きそうだとちょっとこぼしていた。

 でもそう言った後に、「なにがよくてなにが悪いかなんて、親である自分が自分の人生でわからないから、まあ、本人に任すよ。楽しく仕事するのってすごいことだからな。」と言っていた。20代半ばからの友人だ。お互い年を経ていろんな経験を積み重ねて、かつてはこれがいいことなんだと信じて疑わなかったことがそうでもないということに気がついている。同世代が故に思いを同じくすることも多い。自分たちが迷ってきたから子供たちも迷っても生きるだろうというような、無責任ではない、諦めでもない、ただ人間はそういうものだという、お互い口にはださないけど実感を持った話をした気がする。

 今日は仏教徒じゃない人からいいお話を聞いた。

 なんとなくこの本とリンクするなと思いながら。

 

◆金子大榮師の本のレビュー

luhana-enigma.hatenablog.com