如是我我聞

仏教書、哲学書、本ならなんでも。

忘れられない経験。法話に出会った書。さよなら親鸞会の特別版。

 

さよなら親鸞会 脱会から再び念仏に出遇うまで(特別版) (サンガ伝道叢書)

さよなら親鸞会 脱会から再び念仏に出遇うまで(特別版) (サンガ伝道叢書)

 

  こちらは前に紹介した本『さよなら親鸞会』の(特別版)である。何が違うかというと、Kindleでなく、冊子であるということ。そして、新興宗教に関するQ&Aと、法話が付いている。

 

 

 Kindle版で理解を深めたものの、新興宗教の勉強会にはたまに行っていた。というのも、本当にそこにいる青年たちがいい子たちだったので、本当に間違った入信プロセスを経て入っているのではないかと気になっていたのだ。全然関係のない他人であるけれども。

 あるとき、勉強会主催者とご飯を食べるときがあり、その時に、意を決して言った。自分は、この勉強会が某新興宗教であることに気が付いていること。そしてそこに所属しているあなたたちが、とてもいい人たちだから、不本意な経緯で入信していないか心配していること。どんな理由があれ、団体名を隠して勉強会をしていることがおかしいと感じていること。相手は、そんなことはない。これからも勉強会に来てほしいと言っていた。

 それ以上話はしなかったが、半年以上したある日、その青年に会ってほしいと呼び出された。何事かとおもって行ったら、脱会したいという話だった。どうして私に話す気になったのか、本当のところはわからないけれども、彼らのことを知っていても友人だったからかもしれない。

 その時、改めてこの特別版を読んでみた。

 結果、私は彼が脱会するために、特別なことはしなかったし、できなかった。彼にこの本を読んでみるかと尋ねたが、読めないと言ったので、私が代わりに内容にあることを少しずつ彼に問いながら話す感じになった。この本を読んで私が心掛けたのは、「信仰を否定しないこと」だった。彼が10年以上信仰してきた気持ちには敬意を持とうと思った。信仰とは別に、集金のシステムだとか、勧誘方法に関しては、素直に社会人としての疑問を投げかけ、彼の言葉を待った。仲間の信者からの慰留の言葉に対して苦しむ気持ちを共有した。そういうことしかできなかった。

 半年して、彼は新しい道を歩み始めた。最後の最後まで、自分でどうするか決められるのか、正直やきもきしたけれど、しっかり前を向いていた。

 

 私はこの一連の出来事で、信仰を持つ人と、自分の違いを深く考えるようになった。

 詳細は割愛するが、幼いころは生活の中に真宗がある環境だった。大学では宗門大学ではないが、希望して宗教哲学が学べるところに行った。自分としては、興味のある研究対象として仏教を見ているつもりだった。自分は、信仰を持つ人間ではないと確信していた。

 この本にある「本願につらぬかれ」という法話を最初に読んだとき、最後の最後がわからなくなった。法話から突如置いてきぼりになるような感覚に襲われた。どういうことなのだろうか。私が知りたいことがわからない。私は何が知りたくて、わざわざ大学で宗教哲学を選んだのか。どうして新興宗教に入った彼らのことが気になったのだろうか。就職以降、封印してきた自分への問いが再び湧き上がってきた。

 そこから私の仏教の学びが改めて始まった。

 今となっては、すべてはご仏縁だと思っている。