如是我我聞

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共にゆらぐ。迷いながら生きる。

 瓜生師、単著。法藏館!

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人はなぜカルトに惹かれるのか  脱会支援の現場から

人はなぜカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から

  • 作者:瓜生 崇
  • 発売日: 2020/05/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

タイトルからすると、これはいわゆるカルト宗教脱会に関わる本であるように見える。だが自分はこれを読み終わったときに、宗教書だと思った。

第一章は、瓜生師自身の親鸞会への入信と脱会、その後までの体験記である。実際にカルト宗教に向かう人がどういった歩みをしたのかを追体験できる。「自分には絶対こうならない」という人はここを読んだ後どれだけいるだろうか。自分だったらどうだろうということを常に考えながら読んだ。他人の人生をなぞりそれを自分の中に置く体験。

そしてなにがカルトで、なにが”大丈夫”なのかの「正しさ」について。生きていく中で必ず善悪、好悪を付けずにはいられないわたしたちというのは瓜生師の法話の中でも必ずお話しいただく分別の部分である。カルトに関しても我々は自分で「正しさ」を作って判断しているのだ。常識的、宗教的、社会的な「正しさ」を自分たち、自分がそれぞれ持っていて、公衆の場でカルトに対してその「正しさ」を振りかざすときに突き詰めれば意味合いが統一されたものでなかったりする。とりわけ宗教的な「正しさ」は誰がその分水嶺を判断できようか。この部分はカルトだけでなく、人間として自分が物事の判断基準をどう持っているかについて考えさせられる。そして己で作った「正しさ」は調子のいいときに作ったものであれば、それは自分で簡単に破ってしまう脆弱なものでしかない。

最終章ではどうしたらカルト脱会ができるかという点に関しての著述であるが、自分はここで「どうしても自分の正しさから抜けられない人間がどう他者と共存していくか」について考えさせられた。

人間はどうしても他者と本当にわかり合うことなど出来ない。肉親でもだ。カルト脱会というテーマでここは書かれているが、苦しむ人と一緒に苦しみ、揺らぎ、そして人間は迷うものであるという中で互いに生きていくこと。これはカルト脱会だけのことではない。我々の日常にある関係性の話なのだ。

瓜生師が生死の”たしかなもの”を求める様は、求道者の苦しみもがく姿そのものである。自分もそういう人が苦しみ、脱会をするところまでを共にしたことがある。共にするというより見ていたという方が正しいかもしれない。なにもできていなかった。自分は宗教から離れた「一般的常識人」であると確信していた。でも真摯に求め、そして苦しむ人を見ることによって、「お前はどうなのだ」という問いを突きつけられた。そう感じた。なにについて「お前はどうなのだ」なのか明確ではなかった。でも自分はその湧き上がる問いに向かうようになった。今思えば自分はそのときその人と一緒にゆらいでいたのだろう。

「同じ土俵に立って話をする」などと言う表現は本当に陳腐だ。他人同士がまったく同じレベルに立つ事なんて計測不可能。でも、「同じレベルの保証はないけど、あなたの見ている景色と多分同じ景色をみるよ」という謙虚な気持ちは持てる。覚悟かもしれない。偽善に聞こえるかもしれない。「あなたの考えてることすごくわかる」って言ってもいけないな。

 

これは宗教書だ。

実際カルトに入った人とそれに関わる方々にとっては実践的に参考になる本であることは間違いない。でも自分は、様々な価値観にあふれたこの世界でそれぞれが自分の「正しさ」の殻の中で生きている現代人に読んで欲しい。

共にゆらぐ。迷いながら生きるということは、言葉にして完全に伝えて行動できるものではない。その言葉の向こうにあることを感じて自分の中に入れて初めて出来ることではないだろうか。 

◆瓜生師の本①

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 ◆瓜生師の本②

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 ◆瓜生師の本③

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