如是我我聞

仏教書、哲学書、本ならなんでも。

仏教に触れる機会はどこにあるのか

 現在、別の事で忙しく、読書も大物をゆっくり読んでいるのでブックレビューはしばしお休み。なので最近思ったことを書いておこうと思う。

 私が仏教に興味を持っていろいろ活動をしているのを知った友人たちから質問を受けることが多くなった。

 会社の同僚で一緒に高野山にいったり、京都のお寺を回ったりしたことのある人は、仏像見に行くのと、法話を聞きに行くのと、どう違うの?と聞いてきた。美術品として仏像見るのと、自分が仏教教義にふれて、阿弥陀如来の救いというものを聞きたいと思うからという自分自身の気持ちは違うよね?というと、なるほどと。そして、「じゃあ、今度仏像ツアーじゃなくて法話聞きに行きたい」といわれる。

 別の友人は、自分の死んだ後の墓の話をしてきたので、墓は家の事情だからわからないけど…と、還相回向の話をちょっとしたら、実家と今後の話をしたとのこと。そうしたら、自分の両親が門徒として活動していて、とりわけ母親は非常に熱心であるということを初めて知ったと連絡があった。これから自分も考えていきたいと。

 よく寺社仏閣に一緒に行っていた友人たちと会ったときに、私が最近法話に行っているのは知っていたので、聞いてみたいといわれる。時間があったので東本願寺の真廟法話に一緒に行った。ビジネスマンとして成功している人は、プレゼンテーション的にいろいろ言いたいことがあったようでもあるが、結論、「なんで南無阿弥陀仏なのか」という事に非常に興味を持たれていたので、帰りに法藏館書店に寄って本をお薦めしたら購入していた。

 

 自分の感覚だと、周りに仏教に親しむ人がいたら、じゃあお寺に行ってみようかなという人は確実にいる。某新興宗教が名前を隠して仏教勉強会を掲げていても人が集まってくるのだから。友人、知り合いがつてとしてあれば、安心感を持って行ってみようと思う人はいる。仏教教団の回し者でもなく自分がしたいから聞法しているわけで、積極的に一緒に行きましょう!とかやっているわけでは全然ない。それでも質問してくる人がいるのは、FACEBOOKでたまにお寺に行った投稿をしているからだと思う。大分前から寺社仏閣巡りは投稿していたし、別に隠すことでもないので投稿していたのだが、最近はどこまで書いていいかわからなくなってきたので、FACEBOOKの方は当たり障りのないところまでにするか、突っ込んだところは興味がある友人だけの限定投稿にしている。最後は、その人が仏法を求めるなにかを自分の中に持っているかどうかだと思うので、一緒に行ったからどうこうなるものでもないと思っている。でも、行ったことがあるのとないのでは全然違うな。その後でやはりと気がついたときに仏教に再度目を向けるかもしれない。

 こういう風に興味を持ってくれた友人と話をすると、「どこかの寺に所属するのは考えられない」というのが出てくる。自分の会社の特性かもしれないが、転勤族が多いのでそもそも自分の実家にずっといる人なんてほとんどいない。近隣県であっても親と同居も少ない。長男のひとでも。そんな中、介護世代に突入している人たち、親の葬儀をした人たちの話を聞くことがある。親から指示があったらそれに従うし、後は葬儀屋任せだと。

 自分自身も、今いるところにずっといるかどうかわからないので、近所だからとお寺とご縁を結ぶのはどうなのだろうと思っている。自分は墓はそんなにこだわりないし、子供たちに法要だけきちんとしてねというのでもいいかなと思う。きちんとしてねというのは子供たちが法要で南無阿弥陀仏に出遇ってもらうため。聞法していてもこんな考えな訳である。

 先出のマーケティングに長けた友人は、あくまで宗派にこだわるという前提にすると、自分の居住地、実家の居住地で自由に葬儀、法要が依頼できるシステムにし、費用を明確化しなければならない。人口比率で担当エリアを決めるのが一番効率的かつ公平。墓に関しては、後50年以内に生まれた地で家督を継ぐというのがほぼ崩壊するので、ほっといても集団墓地的なものに集約されていくのではないか。過疎地の寺の維持に関しては、葬儀・法要費用一度集めた宗派としての収入を再分配する必要も出てくる。と、自分もそうだなと思う案を出してきたけど、「一つ一つのお寺は自営業だよ・・・。」というと、びっくりしていた。自分は関係ないと思っていいままできたが、お寺を支える周りの人たちがいて、その存在がすごく大きいことに驚いていた。あと、言われたのが、寺を残したいの?仏教を残したいの?それによって打つ施策変わるじゃないかと。そうだよなあ。宗派システムの再分配なんて個々のお寺の人が考えることじゃないけど、本当にそろそろ根本的な改革しないと過疎の地のお寺とか大変だろうなと算盤弾くビジネスマンは思う。

 自分は仏法聞ければいいのだけれど、最近Twitterでも、仏教界の今後みたいな話をよく目にする。結論、一人でも仏法を求める人が、求めたときに出遇えるようになっていればいいのだと思う。どこのお寺に行っても、聞法できたらいいなと思うので、自分としては頑張るお寺さんは応援したいと思う。