如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

光慶寺正信偈講座・・・から考えたこと(瓜生崇師)

 奈良に遠征。いけない距離ではない・・・。

 今回は法話というか、正信偈講座。正信偈か歎異抄の講座は行ってみたいと思ったので、日曜の夜遠征という選択をした。

 

 

 以下、今回のポイント。

・正信=正しい信心 とは

 「正しい」・・・顛倒の見を離れた立場。自我を否定したものの見方。

・邪見驕慢の悪衆生、信楽を受持すること甚だ以て難し。難中の難、これに過ぎたるはなし。

(「正信偈大意」真宗聖典でいうとP752かな)

=まっすぐなものの見方ができない(邪見)人間は、まっすぐに見えるようになると驕る(驕慢)という悪衆生。阿弥陀仏の本願に対する信心(信楽)を保つのは非常に難しい。不可能。とうやってもわからない。

 という感じか。

 「仏教は、いわゆる“幸せ”になる宗教ではないんですよ。お釈迦様は、『人生は苦なり』といっているんですよ。これがいい、あれが悪いという分別をする私ほど当てにならないものはない。人生や生命を肯定するものではないのです。本質は『無我』私が私と思っている私はどこにもいない。縁の和合でしかない。何もわからない自分に念仏で回向を差し向けられている。だから口で南無阿弥陀仏(念仏)というのです。」

と、はじめましての人にはハードルの高いお話に入っていた!ご門徒さんや僧侶の方の多いこの場ならではのお話だろう。

 自分はこれってどこに出るのかわからない回転扉だなと思う。自分の前には回転扉がいっぱいあって、自分から阿弥陀様の方へ向かおうと扉選んで押す。でも、自分で押す前にくるっと回る。そして向こう側に出られた!と思ったら、また自分の元いたところに戻っている。そんな感じ。きっと自分でどこかに行こうと思わないで回転扉をくぐったら、どこか行くべきところに行かせていただくのだろう。

  ちょっとこの講座の話を一日寝かせて、の昼頃に、突然いろんな事がつながって考えることがあった。書き留めておこうと思う。昨日の話、今まで読んだ本、聞いた法話、SNSで見かける仏教に関わる投稿、クリスチャンの知り合いの話。これらがそれぞれつながって見えてきた。

  

①本願寺派と真宗大谷派の法話の違い

 8ヶ月聞法してきて、のべ40人の僧侶のお話を聞かせていただいた。そこで感じたこと。ちなみに自分は普通のサラリーマンで、仏教書も読みはじめて9ヶ月。菩提寺もない。己の意思で聞法を始めた。厳格な教義などにはくわしくない。あくまで現代サラリーマン的凡夫が仏法に触れての感想と思っていただきたい。

 

・本願寺派:どこか実体(想像しやすさという意味で)のある阿弥陀様を想起し、阿弥陀仏のまなざし、あたたかさなどをよりどころとする。だから『阿弥陀様が“いて”くださってよかった』とか、『阿弥陀様の手の上にいる』というような例示が多い。いろんな人の話を聞いても、一定のセオリーがある感じ。

→『(自分が)いまのままでいい。そのままでいい。』という印象がある。自分が"よかった”話が多い(これを救われたと表現していいものかは迷う)

・真宗大谷派:法身の話をしようとしていると思う。そのためか『わからんままきく』という展開がある。人によって法話が全然違う。まったく同じでない。正直何が出るかわからない。西洋哲学のヴィトゲンシュタインは、説明できないことについては沈黙したが、真宗大谷派の法話は説明できるところからなんかわからんものの存在を感じるなにかを引き出してくる。初めて聞いたとき、突如として置いてきぼり感が出ることがあった。

→どの人の話でも、「凡夫にはわからん」というスタンスを感じる。これは共通している。ありがたがらない。そして、自分が”よかった”と思う話はない。なんとなく、還相回向を含むお話が多い。

 

②聞く人の変化

 聞法する人、仏教関係者にいろいろ会ってみて、社会人としての所属(職業、老若男女)じゃなくて、考え方の要素があることを感じた。

 

要素A:説明できることしか信じない。

 現代人は科学力の向上により、神秘性を失ったため、昔よりこうなる人は多いだろう。無神論者もこちらにはいるかな。

 自分の中の代表格は、森岡正博師。著作を読んだとき、めちゃくちゃ頭のいい厨二病だと思った。タイミングよくお聴聞したら、真宗になっていたかもしれないと思った。そんなに意地張らずに、こっちにいらっしゃい!みたいな気持ちになる。

 科学で説明できないことは信じない。人間にすべて理解できるはずもないのに、自分は理解できると思っている人たち。だから、宗教のように非科学的なものに対して説明を求めるところから始まる。

要素B:なにか自分を受け入れてくれる存在を探す

 この辺の人が、仏教が楽しいとか御利益とかスピリチュアル入る人かなあ。拒絶はしないけど、入り込まない。本質は問わない。自力の信じる、信じないの強弱は人に依る。

要素C:損得で考える

 自分の損得で考える。現代人としてはよくある話。

要素D:死ぬのが怖い。生きている事が苦しい。

 某宗教団体の人、身内にもいる。ほとんどの人はずっとなんだよね。生きている事が苦しいというのも、鬱じゃなくてそういう考えの人もいる。意外と知らない人いるけど一定数いる。そして本質を知りたがる。先天的な気がする。

要素E:哀しみがある

 これは、人それぞれなのだが、あるのかどうかで違うと思う。後天的というか人生で起こったことへの哀しみ。

 

 あくまで宗教に関わる面で出したのだが、この5つぐらいの要素が混じってどれが強いか弱いかみたいな差のところで宗教にどう関わるかが決まるような気がする。

 自分の周りを見たら、B強めのA>C(心のよりどころほしい頼れる証拠出して。いけそうだったらいく)みたいなサラリーマンが多いかな。A&C(理屈とメリットないとやだ)も多い。D>BでAもこだわりとしてあると、どうやったら悟りをひらけますかと求め続ける事になる人が多い。

 どれだけ多くの人に教えを届けるかということを考えると、要素Aを現代人の多くが持っているが、そこは宗教が入り込みにくい要素である。ライトなBは行きやすい。DとEは一定数存在しているけどBの比率が圧倒的に多い感じだ。

 生活が不安定な時代とかだと、B、D、Eの要素に満ちあふれていたのだろうなということも想像がつく。生死が隣り合わせなのだから。

 

③時代に合わせた変化

 この間の「はじめまして仏教」で、現世利益信仰を危惧したが、それは間違いだったかもしれない。①と②から、本願寺派は、Bの人たちがよりわかりやすく仏教にみちびくために、新たな方向に舵を切っているのかもしれない。時代に合わせて法話も変わると思う。鎌倉時代と令和時代が同じはずはない。現代人の必要にあった形に変わったのかもしれない。それは宗教として、あり得る話であり、よそからどうこう言う事でもないと思った。だから応身なのかもしれない。「そのままでいい」という事を言われたいという承認欲求は今後も高まるばかりだろう。必要とする人は本当に多くいる。

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

 本願寺派の60代以上の方のお話を聞かせていただいたのは少ないのだが、上記のような感じではなかった。本願寺派の僧侶の方の本も多数拝読しているが、古い時代の方にこういった要素は感じなかった。自分としては、近年の傾向なのかなと思っている。

 真宗大谷派がもし法身を伝えようとしているとして、「必要」としている対象はDとかEで、多勢とは言いがたい。変化の兆しはあるのかどうか。

 

もう一点。

先日「大法輪」という雑誌に、「お寺のソーシャルデザイン」という特集があった。お寺には一階(有料檀家制度)と二階(自由に人々が興味あるイベントを入り口に出入りする)という構想だ、緩く「つながる」ということらしい。既視感。めちゃくちゃ頭のいい厨二病の森岡氏の構想のフレームワークと同じ。ただし、森岡氏の構想の方がよほど宗教的である。森岡氏のいうつながりは、「思い」が結合点なのだ。宗教には入らないで、「思い」でつながるのだという話。けしてヨガやライブなどではない。ヨガとかライブから仏教にどうつながるのか全然わからない。この特集の”二階”に自分は仏教にある宗教性を見いだすことができなかった。こういうのがもてはやされる時代なのか。この特集の松本紹圭さんは本願寺派僧侶の肩書きをおもちのようだが、僧侶が宗教性を隠すというか、意識しない時代にもなったというのか。全然意味がわからない。これは時代に合わせた変化なのか?

 

 ④瓜生師の講義から考えた

 先日フォロワーさんに教えてもらった、「受け念仏」。この講義中、みなさん出まくりだったので、自分も便乗。どうしてでるのだろうか。これは自分だけではないし、意識しているわけでもなく面白い事をおっしゃったときに出るのではない。大峯師の本に出ていた言葉で言うと「本当のこと」を自分が感じたときに出るのだ。でもそう思っている自分の考えも当てにならない。でも何かがつながってくる。それもあてにならないけど。他の人もそのようだ。

 「本当のこと」ってなんだろうか。自分はお聖教の言葉ではないかと思った。お聖教の言葉は「本当のこと」の一形態かもしれない。装飾したり、わかりやすいように例に例えたり、そうして伝えてくださるけれども、本当はお聖教の言葉だけでもいいのではないか。例えなくてもいいんじゃない?

 いろんな方にお話を聞かせていただいたが、「本当のこと」だとつながることは、どの方のお話にでもある。直接聖教の中身を解説されたときもあれば、経験されたお話と口に出された聖教のお言葉がつながってくることもある。ランダムだ。予測不能だ。

 と、思い出したのは、法話は講師によっての善し悪しはないということ。たしかにそうなのだ。その方の味なのである。お聴聞していたら出てくる「つながる」瞬間。自分という当てにならないものの受け取りではあるが、当てにならないけどその瞬間、今の自分が感じるすべて。

 

★瓜生師の無量寿経の内容を正確にしか話してない法話

luhana-enigma.hatenablog.com

 ★ご自分の話がないから「つながり」を感じる宮田師の法話。

luhana-enigma.hatenablog.com

 ★懺悔と讃歎は表裏一体に打ち抜かれた・・・!大窪師の法話

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⑤これからについて考えてみた

 結論としては、自分はお聴聞を続けたいなと思っているだけである。

 「本当のこと」=法話をたくさん聞けば、「つながる」瞬間が増える。「つながる」ことを感じた人は、きっとまた聞く。自分のように。一度聞いたらお聴聞する人が増える。それは、講師の"うまさ"じゃなくて、「本当のこと」の働きだ。技量は関係ないといろんなかたのお話をお聞かせいただいて思った。

 自分ができないから偉そうなことは言えないが、法話に自信の有無なんか関係なくて、お聖教の言葉を伝えてほしい。お聴聞する側にはできない。だからたくさん法話をしてほしい。法話をするあなたが信心いただいているかどうかなんて関係ない。話す場を与えられている。それでいいではないか。そういうご縁なのだ。あなたの話をしなくていい。特にあなたがどうしていやいや寺を継いだかなんて話はしなくていい。あなたがそこに立っているだけでご仏縁だとお聴聞させていただく側はわかっている。阿弥陀様の話をしてほしい。そこにわかりやすいだろうと例えなんて入れなくてもいい。そして仏さまのことを話すあなたも一緒に聞けばいいのだ。

たくさん案内して、たくさんご法話してください。たくさん聞かせていただきます。

 

南無阿弥陀仏