如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

ちょっと変わった教行信証の勉強会にいってみた(木本伸先生)

素晴らしい青空の連休第一日目。

朝、東本願寺で阿弥陀さまと親鸞聖人にご挨拶してから、しんらん交流館で広島の聞法の会があるということでいってみた。ありがとう、法話案内。

 

真宗光明団 定例会(大阪支部) 木本伸先生(立命館大学教授)

http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=34195

真宗光明団の公式HPはこちら

https://koumyoudan.jp/

 

聞法の会はにしのみや聞法会に参加したことがあるが、座談はやったことがなかったのでどうなんだろうと思っていた。参加者のみなさんはほとんどお知り合いのようで、突如として現れた新参者に、あらまあ、どこでおしりになられました?ときかれ、「法話案内です!」と元気よく答えてみたが、全くご存じないようだった・・・。でもみなさん明るくよくきてくれました!と温かく迎えていただいた。

講師の木本先生は僧侶ではなく、西洋哲学の教授。詳しいことはわからないが、仏教を学んでいたことがあり、勤行はお西風だった。なれない・・・。

そうか、僧侶の講師じゃないんだ・・・。ちょっと間違ったかなあと思っていたのだが、木本先生の教行信証の読み解き・・・。すごすぎる・・・。で、今回は法話ではないということで、文体もプライベートに近い感じで書かせていただこう。

まずはいきなり、聞名と称名について。聞名すれば、称名がいらないという人が出てきているこれは違うということを明らかにしていきたい。諸仏称名=聞名。諸仏とは何を指すのか。

大無量寿経における三つの出遇い。阿難と釈尊、親鸞聖人と法然上人、法藏菩薩と世自在王仏。左の人物は、右の人物(諸仏)に出遇っている。ここの関係性の仮説。一気にここまで板書して進められて、聞いているこちらも頭がフル回転!重くてももってきてよかったぜ!真宗聖典!!!!P284

また「還相回向の願」と名づくべきなり。『註論』に顕れたり。かるがゆてに願文を出ださず。『論の註』を披くべし 

「どうしてわざわざ『註論』といったあとに、『論の註』と言い換えたんでしょうね。これ、わかる人にはわかればいいみたいな感じがしますよね。絶対変わった人ですよね!!!」と当時の生きた親鸞聖人を想像されての読み解き。先生、ご自分の世界に入りがち・・・。でもいい・・・。このスピード・・・。ああ、これは既視感のある感覚。そうだ。梅原猛先生の妄想力多めの推察を読んでいるときだ!!!学者の方はそういう傾向あるよなあ。あ、哲学系だけかなあ。ちなみに聴講されている皆様は私の両親の年齢に近く、途中先生が、「速いですか?」と一応の確認をされていたが、みなさま若干諦めの色が出ていた・・・。

教行信証で願文がない教巻と証巻の二十二願のところは、『ひと』を例示に出してくる。出遇いという普遍的なもの。

昨日、レビューを書いたばかり。『「遇う」という言葉を知る』という題名で。ご縁だなあ。しかも「師について」が出てくる本だった。今日このお話聞けるのかーと感動。

教行信証は、ほとんどが先人の言葉の引用と読む方向性だけを示した物であり、このスタイルが意味する物は、「私が呼びかけられる世界」があり「呼びかけられている言葉」を書いている。その言葉で目覚めて穢土生きる自分・・・。

師って結局、その人という人間だからってことじゃないんじゃないかな。自分を気づかせてくれる働きが師という形をとっていると言うことかな。

別分野の大学教授のお話ではあるが、親鸞聖人がどうやって教行信証をお書きになられたのかをずっと考えられて、いまここで聴講する人たちにそれを伝えられているというところが法話に感じられた。

先生のお話の中には西洋哲学のエッセンスと、違う分野なのにそれで言えるほど経典を一部読み込まれているところが絶妙に混じり合い、真宗学視点とはちょっと違う整理のしかたでお話しいただいたところがすごく面白かった。

 

今回、午後の予定やめてこのままいようかな・・・と一瞬迷ったが。いや。やはりお聴聞は別で行かなければ!と思って午前で失礼した。

個人的に木本先生のお話を追いかけていきたい。

 

帰りに、入り口で参加者の方に声をかけていただいた。自分も最近来始めたので、またご縁ありましたらと立ち話。優しい世界。

南無阿弥陀仏