如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

世間と出世間のはざまを考えさせられた(釆睪晃師)

午前に引き続き、午後はお寺の報恩講に参加してみようと堅田に移動。

泉福寺報恩講 逮夜 釆睪晃師

http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=46552

 

 

ちょっとぎりぎりで到着したら、中はぎっしり人がいて、そして、皆さま黒服に略肩衣じゃないか!!!受付もない・・・ということは参加者は想定内の方だけだったのだろうか・・・。「どなたさまもおまいりください」の定義については、①ほんとに誰でも入ってOK ②住職はOKでも世話役の人は想定していない。形式的に大丈夫にはなっている。 ③住職OKでもほんとにくると思ってない。来たときの対応がない ぐらいのレベルがあるように感じる。でも入れるだけいいか。

報恩講様式の正信偈の2回目だからなれてきた。勤行後にバタン!!と大きな音がした。参加者のご門徒の皆様、かなりの高齢でいらっしゃるので、これは一大事!!と思ったら、勤行に参加していた多分最若手の僧侶の方が立てなくて転倒されていた・・・。慣れは大事だ。

釆睪師は大谷大学の中国仏教の先生。阿弥陀経、鳩摩羅什を研究されているとのこと。午前に続いての大学の先生シリーズ。

(この業界では)お若い方の先生のお話は、いつも学生さんに話されているからだと思うが明瞭でとてもわかりやすい。

釈尊の生涯についてのお話しも、存在した生きた人々を想像して話されるところが学者らしいと思うと同時に仏教伝道が長く人間によってなされてきたことなのだと改めて感じる。ああ、大学でもう一回学んでみたい。聴講生・・・。どんなハードルがあるのだろう。時間だろうなあ。でも魅力的。本だけより絶対楽しい。

どれもお経に出てくるいいお話しのその先をいただいたが、一番心に残ったところを備忘録として。

 

釈尊にしても、親鸞聖人にしてもその生涯の中に、一般的に素晴らしい!と思われるエピソードがない。もっと大胆に「盛る」ことだってできたはず。でも仏教はしない。仏教の目指すところは、分別のある世間ではなく、「出世間」にあるということを、手を換え品を換え私達に届けてくれる。世間でいいね、すばらしいねと思っているところには仏教はないのだということ。

妙好人の本を読まれた方は、正直こんな人が近くにいたらめんどくさいと思わないだろうか。伝記中の彼らの生き方は社会通念的に考えて困ったちゃんだ。でも、その人たちと一緒にいて、「あんたはめんどくさいけど、あんたの念仏はほんもんや」という人たちが周りにいる。そういう世界がある。今ある自分の分別では考え及ばない「出世間」にある世界。

 

自分ではわからないけれど、そういう世界があるんだと感じられる。忘れるけどもまた法話にきて聞かせていただいて、ああ、そうだなと思う。その繰り返しをずっとしていくのだろうなと感じた。

 

めんどくさいのは妙好人だけでなく、真宗の高名な僧侶も親鸞聖人をはじめ、変わった人が多いというお話を聞いて、「ああ、いままで遇った僧侶の方々がことごとく個性的なのは、真宗がこれから盛り上がっていく予兆なのだな」と思っている。この法則だと、明るい未来しかない。またお話し、聞かせていただきます。

 

南無阿弥陀仏