2022年8月20日(土)14:00~
『親鸞和讃』を読む ―本願力にあひぬれば― 松原大致師
「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」
(『高僧和讃』【真宗聖典】490ページ)
わたし(「この身」)を離れず身に満ちる。
本願力に遇う たまたまあう。南無阿弥陀仏が身に満ちるのが功徳なのか。
それに喜ぶ人を見たら、そういうひとにならなければいけないのか。ああいうものになれると思ってしまう。
「他力本願」
これはさすがに自分は意味を理解しているが、普段の生活では使う人いるよなあ・・・。
自力の限りを尽くさないと生きていけないということに頷く。
「不虚作住持功徳」
阿弥陀如来の本願のはたらきのことである。
“力”というpowerではなくはたらき
わたし→如来の方向で捉えるから妙好人の話が関係なく聞こえる
というのはそうかもしれないけど、自分の場合は妙好人の話をいいと言っている人のいい方によりそれって違うんじゃないかなと思ってしまうときがある。妙好人の話自体は別にいいのだ。その賞賛の仕方というのかなあ、この良さを「自分は」わかっているというところに微妙な心持ちになるのだ。まあ話が伝言の伝言に聞こえるときというか。
親鸞聖人の御真筆 〈〉を後で付け足している
諸仏称名之願
〈浄土〉真実之行
選択〈本願〉之行
『教行信証』に 「しかるに」 と出てくるのは大事。66回。
大行は諸仏の行かもしれないけど、わたしに届くためのものであるのでわたしが念仏をしなくていいということにはならないな。
わたしが満足するということをむなしくすぐると言っている。
そうだなあ。関係がないということだな。それでよろこびが起っていることが関係のないことなんだよということだな。
「多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」
わたしの側からの矢印がない。
お念仏に不足がない。お念仏申すのみ。親鸞聖人のおっしゃることを辿っていくとそういうことだけなんだよなあ。それでもいろいろ考えて勉強しなくてはと思ってしまうのだけど。
だから聞いてるところもあるんだと思う。なにかが欲しいのだろうけど、別に自分ではなにかとは自覚がない。
この法話を聞いたもの4ヶ月前になってしまったが、ここ一年ほど自分の中には「むなしい」とはなんぞやというのがあった。自分は今の生活をある意味「むなしい」と言うことがあるけど、それを口に出してはいわない。「むなしい」と言ってしまったら日々頑張っている自分が折れてしまうからだ。他力の中にあっても自力で生活をせざるを得ない毎日である。それを自分の口から「むなしい」と言ってしまったらいけないのだ。満足をしている、これでいいと毎日を何とか生きている自分のために言わない。認められない。でも仏法を聞いているときには自分の口に出さなくても知らされる。そういうものであるとこのお話を聞いて思う。
◆松原大致師の親鸞和讃を読む