如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

「遇う」という言葉を知る

月が変わったので、Kindle Unlimitedの元を取るべく読む。

 

君は君の願いに生きていけ: 林暁宇師最後の説法 (響流ブックレット)

君は君の願いに生きていけ: 林暁宇師最後の説法 (響流ブックレット)

 

 

 あまり人関係がわからず読み始めて、ちょっとなんか下調べすればよかったかなあと思った。というのも、法話をまとめた本なのだが、テープ書き起こしそのままのようで、最初はどうしてこんな体裁なんだろう???と不思議に思った。

著者の林師は長年衆徒として暁烏師のお寺に衆徒としておられたとのこと。

「師と出遇う」ということについて書かれている箇所がある。法然上人と親鸞聖人のようなものだろう。現代の真宗にそのような関係はあるのだろうか。自分には特定の「人」に対して「この人の教えを信じて地獄に落ちるのであればそれでもいい」と思えるかというと、無理だなあと思う。「人」を通して、本来人間が理解できるはずのない阿弥陀さまを感じる(と書くしかないが)という事はあるかもなと思う。それがお聞かせいただいていることと同じかなと。それが特定の人になるのかどうかは想像がつかない。

「遇う」という時は、禺という亀に似た愚かでのろのろとしか動かない架空の生物が、自分の進むべき道に出遇えたことを示しているという。一文字に込められた意味の深さと大きさにうなづく。自分も好きな言葉。きちんと腹に落ちた気がする。

この本の体裁の謎は、あとがきで判明した。著者の林暁宇師は、長年暁烏敏師のお寺の衆徒として過ごされた。これはその林師最後の法話で、著者の最終確認が取れなかったために、一言一句忠実に林師の言葉を再現していることがわかった。

自分が助かることによって、この私に遇ったものが助かる。そういう人に私はなりたい。その願いに生きていけと。

人に応援の言葉をかけるとき、一瞬、その言葉が無責任ではないかと思ってしまうことがある。「自分が責任を持てるか」という必要のない判断を入れてしまう。でもその人の願いが、自分だけのためでない大きなものであればあるほど、応援するだけでいいのだな。如来によって起こされた願いだから。

この本には妙好人のお話しがある。そして著者自身が現代ではちょっと想像できない感じの生き方をされているので、そのお話はとても興味深い。体裁がちょっと最初なじみにくいが、読み進むと引き込まれるタイプの本であると思う。