衝撃の読後感。
自分はヤマギシ会に入ってしまう。入らない理由を一生懸命探していた。

夢の入り口: ヤマギシ会特別講習会(特講)について (響流選書)
- 作者: 樹村みのり,永野久江
- 出版社/メーカー: 響流書房
- 発売日: 2017/05/23
- メディア: Kindle版
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冒頭は漫画だし、「ああ、新興宗教がらみの体験話かな」という非常に軽いのりで読み始めた。
この「ヤマギシ会」の主義として標榜している「無我執」「無所有」「無固定」。このキーワードをみて、真宗を学んでいる人は心動かされずにいられるだろうか。自分はどういう内容なんだろうと正直興味を覚えてしまった。分別の世界で生きる衆生には無理な事であるとされていることを実践しようとしている。しかも一見宗教という形をとっているのではない。あくまでそれを実践する生活なのだ。
この体験談の著者は、宗教経験のない普通の会社員の女性であり、特講と呼ばれる合宿で行われるセッションのおかしさに気がついていった。でも、今真宗の教えを知っている自分がこの合宿に参加したとして、この合宿に違和感を感じて逃れることが出来るだろうかということを真剣に考えてしまった。
例えば、詳しい内容は読んでいただくとして、質問攻めにして「主体をなくす」ことで「無我執」に導くというセッションがある。自分は真宗の教えでは「我」があることによって、分別があり苦が生じると理解している。そんな自分は「わたしは」という主体をなくすことを強いられて、その後に自分というものがない状態で行動していることに気がついたときに「これがあるべき姿だ!」と思わずにいられるかどうかわからない。そうか、こうすればよかったんだ!と思わないだろうかと考えてしまう。
これにはこの段階で一種の「全能感」に充たされることがあるらしく、自分はこれを「回向」と勘違いするのではないかとも思った。今までの自分から脱却する大きな価値観の転換。それはあくまで誘導から発しているのだけれども。
「全人一体」社会を目指すという所。すべてのものを共有する生活。衣食住において。現世でできる限りの「平等」を目指しているのだ。「他者」がいなければ、「わたし」もいないから「感情」が存在しない。わかっている。今この世の中で、「自分」というものをすべて押し殺して生きることが決して健全なことではないことを。でも、これを見て、「平等施一切・・・」を思い出さないだろうか。ひょっとしたら、これがあるべき姿なのかもしれないと思わないだろうか。
精神的に追い詰められる特講のセッションの終わりに「残れますか」と聞かれて、「残れます」と苦し紛れに言った瞬間の「自由」。解放された自由と、悩み苦しんだ中から出た自分の言葉に対する「自由」の感覚。自分は決断できるのだという気持ち。誘導により、その決断に「自分」がいないのに、その自由さに陶酔してしまわないだろうか。
この本は、マインド・コントロールの手法で行われるヤマギシ会の特講という合宿内容について警鐘を鳴らしている。勧誘目的を隠し、半ば監禁のような状態で論点をずらした質問攻めで精神的に追い詰める。このやり方が危険であると。
真宗の中にいる自分はその観点だけでは読むことが出来なかった。プロセスがどうであれ、自分はこのヤマギシ・イズムを無視することが出来るのだろうか。無視できない自分は、マインド・コントロールの手法で行われる合宿に参加して、抜け出すことが可能なのだろうか。
「誰のものでもない」。もし、自分がそうとう人生に疲れてこの特講に参加したとして、全財産をなげうってこのユートピアに来ることができるとなったとき、どうするだろうか。きっと普通のサラリーマンだったら絶対ひっかからないだろう。でも、今の自分だったらどうだろうか。ほんとうにも求めるものがあって、それに近い実践が目の前にあると。しかも実体験させられる。その誘惑というか、現実の体験に抗うことができるだろうか。ほんとうの真宗の教えとは違うところに行っているのは百も承知だ。冷静な今ならそう言える。でも、何も知らされずに行った先で、誰にも相談できないで、体験したとしたら・・・。
自分はヤマギシ会については全く知らなかった。ほんとうにこの本を読んで考えさせられた。自分は大丈夫なんてない。そしてどこからが世間で言う「危険」なのかということも、本人の考え方次第というところがある。なにがだめでなにか大丈夫なのか。ヤマギシ会がだめで浄土真宗は大丈夫なのはなに?勧誘の仕方だけ?全財産を棄てること?すべてを捧げる生き方?そうする人はどこでもいるだろう。
自分がヤマギシ会に入らない理由を考えた。考えさせられた。
真宗の教えを少しでも学んだ方は、この本を読んだら是非考えてほしい。
あなたは絶対ヤマギシ会に入らない自信がありますか?
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