如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

光慶寺仏教講座 正信念仏偈(24)「帰命無碍光如来」(瓜生崇師)

2021年12月19日(日)19:30~21:00

光慶寺仏教講座 正信念仏偈(24)「帰命無碍光如来」

shinshuhouwa.info


www.youtube.com

 

・世親は「尽十方無碍光如来」に帰依すると、この阿弥陀の救いが仏教であるかを疑問に思う人がたくさんいるので『浄土論』で明らかにすると釈尊に対して宣言をする。

・お経は「いきもの」。どんどん姿を変えていく。

・阿弥陀さまは、お釈迦様の悟りをそのまま、真如の世界そのもの。真如がわたしを目覚ますはたらきが南無阿弥陀仏

・世親が仏教とお阿弥陀さんを繋いだ。

・世親は、浄土は三界の欲を充たすような場所ではない。空である。われわれの思いを超えてた真如世界であるという。

・世親がいたときに今われわれが読んでるような形の『無量寿経』があったかどうかわからない。そして読んだかもわからない。世親の『浄土論』があって『無量寿経』が作られたのではないかという説がある。

・お経は無数の人たちが関わって出来ている。ここにいるひとも参加している。「本当の世界が見たい」という気持ち、聞く人がいるからお経が出来る。目覚めたい人がいるから説かれる。聞く人はお釈迦様と同じはたらきをする。『無量寿経』に書いてある。

・明恵のように、法然上人を『摧邪輪』を書いたが、それに反論する意味もあり親鸞聖人が『教行信証』を書いたともいえる。明恵がいなかったら『教行信証』は説かれなかったかもしれない。批判する人だって、浄土真宗を作った人なのだ。

・提婆達多も阿弥陀仏の本願を明らかにした菩薩であると親鸞聖人はいう。

 全然知らなかった。世親が出てきた辺りで『無量寿経』が出てきた。ちょうど変化していっている時代。この時代の認識と全然違うってことか。そこまで想像力を働かせてお経を読んでないなあと改めて思う。というか、自分は正直全然お聖教を直に読む暇がない。本当は一日に10分でもやればいいんだろうけど、出来てない。YouTubeで法話聞いてる時だけ聖典を開くこともあるけど・・・。でも瓜生師の話を聞いていて思うのは、瓜生師がお聖教を読んで出遇った先人のお話を言語化して伝えていただくことにより、まったく不学の自分もそれを垣間見ることができるということ。そしてかつては全然わからなかった七高僧のお話がとても興味深くもっと知りたいと思うこと。『教行信証』を読みたいという気持ちが起こること。それがすごいなと思う。自分独りでは起きない心なのである。

 そしてやはり当時の状況に想いを馳せて『浄土論』の部分を読むと、ものすごい決意なのだなというのも感じる。これがなかったら、いま自分が真宗の教えを聞く事もなかったかと思うと、なにひとつ無駄なことはないというのがただ感じられる。運命論じゃなくてそう思う。今、自分が生きる奇跡のようなものを感じる(でも実感として喜びじゃないのが自分)。

 しかしながらこのお話は、既存の真宗のお話だけを聞かれている方は、自分の足下をグラッグラにさせられるような感じがしただろうな。自分は今、お聴聞を始めた頃の気持ちに戻っている感じなので、だったら真宗って「たしかな」仏教じゃないかもしれないという思いが出てくるのがわかる。そういうのがあるのよくわかる。でもそこで終わらないのがこのお話だ。

 いままで読んだ仏教関連本でも切り開いてきた先人から自分へつながるものを感じる本があった。「本当のことが知りたい」と向き合ってきた先人と自分はリアルに語り合うことはできない。その足跡を見たり聞いたりするにつけ、心が震えるのだ。いつも自分は隔絶したひとりだと思うのだけど、そのときにはなにか大きなものの一部なんだと。それも自分は南無阿弥陀仏に貫かれている瞬間じゃないかなと思う。

 

・素敵な世界に金の鎖で縛られて五〇〇年。弥勒が「この世界は結構です」という部分を親鸞聖人は省いている。引用出来なかった。わたしはこの世界は居心地がいいということがわかっていたから引用出来なかった。

 人間・親鸞聖人である。ああ、自分にもあるのだ。痛すぎていえないこと。いったらきれい事に成からいえないこと。いえないこと自身がもう自分の分別のど真ん中なこと。最近こういうことばかりだ。最近、ご法話の中でも親鸞聖人の言葉をただひたすら正しいと崇め奉るような感じから、人間としてどのように捉えられたのかということまでちょっと考えることが出来るような気がする。これも結局法話を通してなんだなあ。自分でやってみたい。

 最後、『無量寿経』十二願、十三願のお話。浄土の境界を破壊し、どこまでもわたしを追いかけて無明の闇を貫いて破るはたらきになる。正定聚はわたしをおさめとってはたらくはたらき。今貫かれると親鸞聖人はおっしゃる。世親の帰依した「尽十方無碍光如来」。いまの自分はこの境界を破るお話を何回も聞かされている気がする。そうだといいなと、そんなことあるんだろうかとがぐちゃぐちゃなのだ。自分が境界と壁を作りまくりなのでそうなんだろうかと思う。どうにかならないものかなと沈鬱なのであった。他人が境界を作っていると思いがちだけど、ふとした瞬間に、自分も作っているじゃないかと思うのだ。でもわかったところで直らない。

 

◆大乗の流れの中で自分に南無阿弥陀仏が届いた話のおすすめ本

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

 

◆過去の講座

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

luhana-enigma.hatenablog.com