如是我我聞

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『仏教における女性差別を考える―親鸞とジェンダー』 差別を自分事として考えさせられる。

 大分前に別のところに書いていたのだが、これは遺しておきたいと思ったので移しておく。

『仏教における女性差別を考える―親鸞とジェンダー』 源淳子 あけび書房

仏教における女性差別を考える―親鸞とジェンダー

仏教における女性差別を考える―親鸞とジェンダー

  • 作者:源淳子
  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: 単行本
 

  自分はフェミニズム系の本が苦手だ。
 初めていい本にあった。

 東本願寺ギャラリー展で「経典に表された女性差別」パネルを監修された著者なのだが、浄土真宗に関わる部分を展示直前に外されたという事があった。その内容についてと、著者自身の「親鸞とジェンダー」というテーマでのお話。

 パネル問題は部分的な情報しかなかったので意味がわからなかったのだけれど、制作側の立場からの内容を読んでようやくわかってきた。前に読んだ源さんの本の感想でも書いたが(『いつまで続く「女人禁制」: 排除と差別の日本社会をたどる』)、差別問題って、結局言い訳しないで「差別あったよ」って認めるところからでしかなにも前に進まないと思う。これは最後読み進めていって、源さんも同じ事を書いていらっしゃった。いくらこじつけて別の読み方しても今の我々の感覚で言ったら差別であることはどうしても変わらない。当時の感覚ではそうでなかったのも事実かもしれないが、今という立場で認めることは必要だと思う。これはあらゆる差別問題でいえることじゃないかな。

 すごくこの問題で共感を持ったのは、フェミニズムの研究をしている源さんがいざ被害者の立場になったら、即時に声が上げられなかったというところ。これって本当の事だ。いろんな人は、なにか事が起こったときちゃんとしておけばよかったのにとか言うけど、そんなにうまくできないよ。
 自分は心理カウンセラーの勉強をしていたときの実技で被害に遭った人の話を聞くセッションがあった。大体が、そのとき反論の声を上げられないのだ。自分が悪いのかもしれないという思い。これくらいなんともないと思えない自分が未熟なのかもしれないという思い。差別もハラスメントも被害者が個人が守りたいものを他者に傷つけられるという点で一緒ではないか。
 最近、ネットのコラムでお笑い芸人の東野氏が、明石家さんまの限界について話しているのを見た。「さんまさんがオネエキャラの人を”おっさんやないかい”といじることはもう許されないということがわかっていない。」LGBTのことを世間はもう理解し始めている。これをこのように”いじって”笑いをとることができないということがわからない人たちがいると言っているのだ。
 なにもこれはお笑いに限った話ではない。社会生活においてもそうだ。
 性別関係なく、セクハラと捉えられるような発言をしたときに、誰もなにも咎めなかったから大丈夫ということはない。先ほどのカウンセラーの勉強の時、被害者はそれを大丈夫だと思い込むために真逆の行動をすることもあると知った。例えばセクハラをなんともないと思うために、下ネタにも笑顔ですぐにノっていくこと。いやでいやでたまらないけど上司の誘いには絶対逆らわない人。心の中とは逆のことが行われていることがある。そして自分をもっと傷つける。「この人は大丈夫」「ここまでは世間で許される範囲」って誰が決めるのか。それは自分の勝手な解釈だ。相手の何をわかって「大丈夫」というのか。私はこの学びをしたときからずっとこれが心に残っている。無言はOKじゃない。

 源さんの歩まれた道というのは素朴で、ご本人の感じられたままのことが書いてある。”正しい”という価値観ではない。「女人五障」「変成男子」に関しても自分が立って見る視点から書かれている。宗教的自立に忖度はない。
 自分はここ2ヶ月以内で「女犯偈」を目にするのは3回目だ。前の2回は男性の講師からの話だった。親鸞のセックス観は、仏教の戒を破ることであったと自らが妻子ある男性と生活を共にしたことを告白されながら語られている。この箇所でこの本がすごいのは虚飾がないことだと理解した。前2回に聞いたものと違う解釈であったが、それが正しいとか間違っているとかでなく、源さんの解釈を噛みしめた。
 フェミニズムにありがちな、自分が可哀想なにおいや、フェミニズムを掲げる尊大さみたいなものがない(自分の偏見かも)。なんなら性別も感じない。女性の視点じゃなくて、あくまで人間の視点なんだよな。いい本です。そして自分はどうなのだと考えさせられた。ここがいい。
仏教関係者とか関係なく、是非読んでほしい。

 

こちらも参考までに。