如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

『晩年の親鸞』ー自らが読んでいくことー

 『晩年の親鸞』 細川巌 法藏館

晩年の親鸞

晩年の親鸞

  • 作者:細川 巌
  • 発売日: 2019/10/20
  • メディア: 単行本
 

 

  善鸞(親鸞聖人の第三子)義絶後に夢告により『正像末和讃』を書かれていったのではないかという思いを『教行信証』から『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』を親鸞聖人のお書きになった内容から辿って明らかにされる。

 とりわけ蓮如聖人の文明本と、草稿、初稿との違いを明確にして、本来の親鸞聖人がお書きになった和讃の並びにも注目している。浅学な素人にも非常にわかりやすい科学的手法だと思った。親鸞聖人は、和讃を「こういう悪がおこるのをいましめる」ためではなくてあくまでも自分の中のことを述懐されたという見方、たいへんうなずかされた。たまに「親鸞聖人はこういうのが罪とがということを知らせてくださっている」という引き方のお話を聞くことがあったけれど、これが親鸞聖人自身のお話であるならばこれも自分の中のお話になるのだ。親鸞聖人の内面をお聞きして自分の中を見るのだ。

 唯それだけではなくて、著者の細川先生がどこまでも人間としての思い、思いが込められた和讃から親鸞聖人と対話するかのようにこの本を綴られているのが素晴らしいと思う。自分もこの本に書いてあることを理解するという読み方では亡くて、「自分はどうなのか」ということが問われながら読み進んでいくこととなった。それゆえちょっと時間がかかった。自分もこういう読み方をしたいと思った。自分が原典に当たる。

 『歎異抄』に繰り返し出てくる善悪と宿業。宿業とは

ふかい智慧によって見いだされる自己の現実。本願にあうことによって見いだせる自身の実体。

宿業の段を読んで、自分は時剋の極促を思う。あの時でなければ自らの宿業を理解することはないのではないか。言葉の上で「これがわたしの宿業です」といったとしても言語化して陳腐化する気がした。

 自分がお聴聞しているなかで感じていることのヒントがあった。著者は、自覚なく二十願に留まっているわれわれは、「どうしてこうなってしまったのか」という自己を揺るがすことに出遇ったときに、二十願からでる。出て初めて自分が二十願にいたことがわかる。

仏智不思議を疑って、如来無視で生きているわたしだとわかる世界が十八願だ

 自分は瓜生崇師の法話を聞いているが、なぜ聞くようになったかがちょっとわかった気がする。意識もしていないが二十願にいる自分を外にほっぽり出して「あなたのいるところは二十願だ」と気がつかされるからだと思った。瓜生師の話はあくまでご自身がわからないということをお聖教でもって話をされている。そのときに瓜生師のわからんが自分のことになって、自分の無意識のわからんを引きずり出すのだと思う。

 そういうお話をする方はたくさんいるけど、最後になぜかお話しされている方は「わたしは十八願にいますけどね」ということを思わせる何かがある。それがまた自分の何かに蓋をする。

おもては常満の月の如く。まなこは青蓮の花の若し、仏法大海の水、阿難の心に流入す。

 『正像末和讃』の初稿にある、顕智上人が結びの文として『涅槃経』から引かれてお書きになっている。書き終わられた顕智上人の思いもここで感じることが出来た。

 いまだ覚らざるものであった阿難が、結集の場に現われたのを場にいる人たちが讃嘆した場面である。そこから阿難は「如是我聞」と語るのだ。無量寿経で、光顔巍巍たる釈尊を前に座より立った阿難。そしてそれを伝える。仏法の大海の中にいて。ああ、大乗の流れというのは今ここに感じられるものなんだな。

 

◆この本の前に読んだ歎異抄第十三条の本もよかった。 

luhana-enigma.hatenablog.com

 ◆瓜生崇師の『歎異抄』を読む第十三条

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