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『阿弥陀経』のこころ② (瓜生崇師)

2022年2月20日(日)14:05~15:40
等光寺 報恩講 『阿弥陀経』のこころ② 瓜生崇師

①    はこちら。

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舎利弗はお釈迦様の後を継いで教団を率いると思われていた程の人だった。その舎利弗に36回も呼びかけながらお釈迦様は説法するのに沈黙する舎利弗。『阿弥陀経』はお念仏を称えたら、極楽に生まれてハッピーという内容に読めてしまう。仏教の本来の教えにパッと見思えない。

 

【仏教のおしえ】
人は幸せのために生きている。極楽はわたしのしあわせが出来上がった姿。
自分のこれが幸せだと思うことが、手に入らない、いつか離れていくということが苦しい。
大事に思っている子供、仕事のことで苦しむっていうことありませんか?
苦楽一如(見ている方向が違うだけで一緒のもの。切り離せないもの。)

35歳で悟りを開いたお釈迦様。お釈迦様の悟りはすべてのものはみんな平等であって差別・分別が存在しないというもの(一切平等)。
自分が決めたいいわるいというものは、本当はそんなものはない。一切の色づけはないと気がついた。良い人生も悪い人生もない。すべてのものはみんな平等に尊いのだと気がついた。
平等覚、無分別
問題はわたしたちにはこれがわからない。ゴキブリの命と自分の家族の命を平等に思えるかということ。これものすごい残酷なことだ。頭でそうかと思っても、心がそう思わない。この事実を撥ね付けて生きる。お釈迦様はこんなこと誰に言っても分かるものではないと思った。みんなそれで抵抗するだけだと思った。わたしたちはよしあしで分け隔てしていかなければ生きていけない。お釈迦様は静かに消えていこうとした。生まれ変わり死に変わりを断ち切って完全に消えて覚りを完成させようとした。そこに梵天が現われ、必ずわかる人いるから教えを説いてくださいという(梵天勧請)。
そのときお釈迦様はみんななんで生まれて生きているのだろうという苦しみ迷いの中にいることに気がついた。これらの人をすべて目覚ましていかなければ本当の覚りじゃないと気がついた。一人の覚りというのは端からない。わたしはまちがっていたといって、覚りの世界を捨てて迷いの世界に戻ってきた(如来)。いい音楽や映画を見たら、他の人にも見せたくなりませんか?わたしたちはそういうふうになっている。だから覚ったら他の人に伝えたくなる。
お釈迦様は人間らしく、おなかを壊して苦しんで死んでいった。みんなと同じ迷いの世界にいた(菩薩=迷って苦しんでいる人の中に、そのなかに飛び込んでいって一緒にすくわれていく)。
本当の真実の世界というものは、迷いの姿となってわれわれのところにやってくるのが分かった。

 

【『阿弥陀経』に書かれている本当のこと】
お経に戻ると、幸せだけがある世界だというと差別の世界なのだがなぜそのようなことが書かれているのか。
それぞれの花がそれぞれの光を放って美しいというのは、本当の覚りの世界には、一切の差別がない。苦しい人生には苦しい人生の尊さがある。虫けらの人生も虫けらの人生の尊さがある。本当の世界には、そういう差別をする名前がないと言う。浄土に地獄、餓鬼、畜生がいないという。浄土に犬やねこいないってこと?これ差別じゃないか。なんでいないとかいるとかがあるのか。地獄じゃなくて極楽に行きたいという思いがぼくらを迷わしている。それで苦しんでいるんだという。仏教の本当の覚りは、地獄じゃなくて極楽に行きたい、これはしんどいことでこれはたのしいことと差別分別で苦しんでいるということに気がつく。
わたしたちにはこの世界が分からないから、地獄がいやで極楽が良いという思いでしか仏教を聞けない。最初から差別ないよ!っていってもわからない。
このお経をよく見ていったら、地獄・畜生の連中がいないと書いてあるのではないと気がつく。そういう「分別差別する名前」がない。犬を畜生といっているのは、わたしや。
仏さまは、わたしたちに仏道を求めるこころがないことを知っている。だからわたしたちに合わせて法を説く。わたしたちに合わせて迷いの世界にくる。『阿弥陀経』に書かれているのは一見区別があるように見えるが、青いものは青いもの、白いものは白いもの、分別しないんだという一切平等の世界なんだ。これを舎利弗に説いている。苦しみと楽しみの区別がない世界だと言っていく。

 

【なぜ舎利弗に説いたか】
①    これだけ頭のいい人じゃないと本当に言いたいことが分からなかったから。
②    舎利弗が声聞だったから。
声聞:一人で悟っていく。
舎利弗は教えのすべてが分かっていたが、お釈迦様には彼に足りないところがわかっていた。教えを分かっているだけでみんなを目覚めさせることがなかったら、本当のすくいではない。

【共命鳥】(阿弥陀経に出てきて仏法を語る鳥)
双頭の鳥。頭は半分ずつ起きて、寝てとしている。片方の頭が美味しい果物を見つけてもう片方の頭にも食べてもらいたいと思ったが、自分が食べるのでも同じことだろうと思って食べた。でも食べてない片方は怒った。腹が立ったので毒を食べたら体が一つなので、両方の首が死んでしまった。
自分の憎む気持ちで自分が苦しむことがある。この鳥の姿は実はわたしに向けられたお説教。
自分のことをわかっていると思っているまさに自分のことなのだ。自分って統一されたひとりだと思っているけど、その時々で違う顔もっていると感じる。あるなあ。


【お浄土】
極楽浄土は楽ちんができるところではなくて、そこで本当の教えに遇う。仏さまを供養して回る。お浄土にいったらお聴聞して回る。本当の世界を教えてくださいと一緒にお聴聞する仲間がたくさんいる。覚りを求める人たちが励ましてくれるんです。
お浄土で会いたい人に会えるんじゃないんです。こういう人に誘われて、本当のお話を聞いていけるんだと書いてあるんです。
舎利弗には浄土は遠いところにあると言った。そしてなんで浄土って、どこかにこういう世界があると思っていませんか?それはちがうと阿弥陀経に書いてある。
阿弥陀:無限の光 無限の命
浄土が場所だったら、ここはいいところで入れなかったここはだめという差別になる。
無限の光と無限の命が合わさったら、世界の津々浦々まで照らすだろうっていっている。ここにも光が届いている。無辺はここからここまでというものではない。この時点で浄土は場所じゃ亡くなった。宇宙全体の生きとし生けるものを目覚めさせるはたらきになったんだと言っている。どっかにある場所だという説き方もされるけど、それは僕らがそういうものでしか受け取れないから。
でもその阿弥陀さまの光を感じられるかというとそうじゃない。わからん。だからどこかにある世界のように感じるが、よくみていくと、今わたしを真実に目覚めさせようとしているはたらきだということがわかる。みなさん今日ここにお話を聞きに来られていますが、いろんなことがあったからだと思う。ここに来た理由は、門徒の家に生まれた、寺と関係がある、たまたまとかいろいろあると思いますが、そのいろんなやつは全部浄土のはたらきだ。そういうはたらきが今わたしに届いている。阿弥陀さんって、どっかにいる仏さんだと思うだろ。いまお前のところで現在お説教しているのが阿弥陀さんだ。境界がなくなってはたらきとなってわたしにとどいている。
日々の生活の中でいろいろ知らされることがある。つねにこういうのを聞いているんだ。わたしのところに絶対目覚めさせると阿弥陀さんにお説教してくれているんだ。ずっと迷い続けていたわたしが、本当のはたらきに遇っていく、こういうことをずっとお釈迦様は舎利弗に言っていく。

昨日の一休さんのお話と相まって、改めて十二願、十三願を聞く。遠くにあるのではない。

 

【声聞の代表 舎利弗】
覚りの五十二位というランクがあって、ずっと上っていくんだといわれているが、みんなこの覚りを得ようと仏典を学んで修行しても到底上がっていけないという。
明恵上人(華厳宗)は、とても真面目な人で、法然上人の「南無阿弥陀仏でひとがすくわれるなんておかしい!菩提心がなければ覚りを開くことなんてできない!」といった人。美味しい味噌汁をもっと食べたいという執着を抑えるために、ほこりをいれてまずくして自分の執着を抑えた。
明恵は修行の心を乱される、この覚りの段階から墜ちることを恐れた。思わずして墜ちる。なにしても崩れてしまう。ただ下に崩れるだけではない。
もうひとつは悟っちゃうことに墜ちていく。四十七段目で一切平等の空に目覚めたら、浄土の光がみんなにとどいていて、すべてすくわれていくのなら、もうお話を聞く必要もないし、誰かを助けていく必要もないというふうになってしまう(声聞)。
わたしはすくわれて悟ったというところに座って動けなく。地獄に行く方がまだましで、なんとかなりたいという気持ちがまだ残る。
なぜ声聞になるか。自分はどうしても悟ってすくわれたいという思いでここに入ってしまう。本当に目覚めた人は仏の世界に入らないと言われている(一生補処)。覚りの世界にはいらないで、一歩手前の迷いの世界に留まる。悟ってしまったら救えない。お釈迦様も迷いの世界に留まっている。みんなをすくうことが自分のすくいだと気がついたから。わたしひとりが地獄に落ちてもみんながすくわれるならそれでいいという厳しい道。

ああ。これは阿闍世のことだ。地獄に落ちたくないだけの人間が、みんながすくわれるなら無間地獄に墜ちてもいいという。

「假令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」(『無量寿経』巻上【真宗聖典】13頁)

菩薩の志。本当のことに目覚めるとはこのこと。覚りの世界に留まらないとなる。俺は助かりたい、すくわれたいという真面目な心が「俺はすくわれた!たすかった!」というところに陥ってしまう。これを菩薩の死という。舎利弗は声聞に留まることを悩んでいた人だった。

「また、舎利弗、かの仏に無量無辺の声聞の弟子あり、みな阿羅漢なり。」
(『阿弥陀経』【真宗聖典】128頁)

一人の覚りの世界でどうにもならんと思っている舎利弗に、浄土には声聞がいっぱいいるという。

 

【倶会一処】
「また舎利弗、極楽浄土の衆生と生まるる者は、みなこれ阿鞞跋致なり。その中に、多く一生補処あり、その数はなはだ多し。これ算数の能くこれを知るところにあらず。但、無量無辺阿僧祇劫をもって説くべし。舎利弗、衆生聞かん者、応当に願を発しかの国に生まれんと願ずべし。所以は何。かくのごときの諸上善人と倶に一処を会することを得ればなり。舎利弗、少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるるを得べからず。」(『阿弥陀経』【真宗聖典】129頁)

舎利弗はここまできたら、お釈迦様がなぜ自分に極楽の世界を説いてきたか分かってきたと思う。最初目覚めた自分に関係ないと思ったが、覚りの世界から迷いの世界に呼びかけるはたらきが浄土だとお釈迦様は伝えているんだ。そして浄土にはみんなを目覚めさせようとする人がたくさん居る(菩薩)、一人で悟る人もたくさん居る(声聞)。そういう人たちが菩薩や声聞という名前で差別されない世界がある。これが倶会一処という言葉で説明される。
みんなを目覚めさせるという菩薩と、自分一人の悟りにいる声聞が同じところで遇って、仏法を聞いていける世界。みんな励まし合って仏道を求めていくんだ。
舎利弗はびっくりしたと思う。自分の世界から一歩も進めなくなった声聞は自分一人では絶対出られない。「あなた、変なとこに入ってませんか?一緒に仏法聞こうよ。あなたすくわれるような顔をしているけど、本当はそうじゃないんだ」とそういうことを言うてくれる人がいて初めてここからでられる。宇宙の仏が、お前は声聞だよ。菩薩道を歩もうという。それでやっと一歩を踏み出せるのだ。そう声を掛けてくれる人が浄土にいっぱいいる。

自分はずっと勘違いしてきた。法話で二乗(声聞・縁覚)が出てきたら、修行している自分と関係のないすごい人たちのことだと思っていた。でもそうじゃないんだ。自分は声聞なんだ。凡夫でもあるけど、自分一人のすくいから出られない存在として声聞なんだと思う。「わかった、すくわれた」ではなく、自分のことでいっぱいなんだ。他者のことも助けると頭でわかっていても、ほんとうにこころからそれができるものではない。自分のことなんだ。
倶会一処で遇えるひとたちって、こういうひとたちだったんだ。ただすごい人じゃないんだ。自分のことしか考えられない自分にはたらきかけてくれるんだ。たすけてくれるんだ。

【たくさんの仏】
東西南北上下のやまもりの仏さんがこのお経を褒め称えている。
これは真実を求める人を護ってくれるお経だと褒め称えているんだぞ。

「一切諸仏 所護念経。」(『阿弥陀経』【真宗聖典】132頁)

わたしたちが、悟ったすくわれたというところに墜ちないように護ってくれる。ありとあらゆる仏さまが、一緒にこの道を求めていこうとすすめているのが聞えないか。このお経がお前に語りかけているんだ。聞いているか、舎利弗!とお釈迦様はいっているのだ。不退の道を歩むことができるんだ。仏教はひとりでもとめるんじゃないんだよ。みんなでもとめるんだよ。それを舎利弗は見失っていたんだね。われわれだってそうだよ。わかった、すくわれたというところに腰をおちつけて歩みをやめてしまうことがなんと多いことか。

このお経は難信の法である。このお経の真の姿、諸仏、あらゆる人に護られ菩薩の道を歩んでいく。これは到底信じることは難しいんだ。そして舎利弗は返事しなかった。途中で分かっただろうね。そしてわたしと同じようにたったひとりのすくいに閉じこもっているひとの、菩薩道を歩めない人のお経だと分かったと思う。こうして『阿弥陀経』は終わっていきます。

親鸞聖人は、表向きは南無阿弥陀仏を称えて幸せになる仮の姿を現していて、もう一つは真剣に求めても迷っていくわたしの思いを貫いてくれるのが『阿弥陀経』の教えだとおっしゃっている。

そうか。舎利弗よ!というお釈迦様の呼び声は、自分に向けられたものだった。「こういうものじゃないの?」と中途半端な理解で聞いている自分に呼びかけるものだった。お聴聞しながら目を向けたらたくさんの人が一緒に聞いていた。こういう人がいるから自分は聞いていけるんだと思う。知らない人であっても場を一緒にする人。
しんどいときがある。誰とも関わりたくない。一人で淡々と聞いていきたい。まあ、その傾向は自分の生来のものだと思うので、それはそれとして、やっぱり自分はお聴聞行ってる時に会う人にぐいっと引っぱられるなあと感じるのであった。引っぱられたら、視線の先が変わる。見える世界が変わる。そんなのは狙ってできない。まあ、聞いていくだけなんだな。
『阿弥陀経』って、求めて苦しむひとを護ってくれるんだ。初めて知った。今回の方は和、じわじわとそれは自分のことだと思い知らされていくのを感じた。自分のことではないことはないんだなとふと思う。