如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

長源寺 同朋学習会「無量寿経」(21)(瓜生崇師)

2022年7月7日(木)
長源寺 同朋学習会「無量寿経」(21)(瓜生崇師)

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【三心一心の復習】
問答により成り立つお経:『無量寿経』上巻 阿難の問い 下巻 弥勒の問い

「世尊我一心  帰命尽十方
無碍光如来  願生安楽国」
(『浄土論』【真宗聖典】135ページ)

世親が「一心」と書かれたのを親鸞聖人は気にされた。
至心:まことのこころ          
信楽:疑いなく信じるこころ       
欲生:浄土に生まれたいと思うこころ  
善導大師も法然上人もこれが一つでも欠けて往生できないとおっしゃる。親鸞聖人は自分はまことのこころがないとあらゆる所に書かれている。

【至心】
・善導大師:外が賢善であれば中もそうでないといけない
→親鸞聖人は、外に賢善の相を出してはいけない。中は虚仮だから。
心をちゃんとして阿弥陀さんを信じろと言われたら出来ないが、心は問わないから南無阿弥陀仏と称えなさいと善友と共に称える悪人。

【不浄説法】
名誉欲と利益欲のために説教をする。信じた振りをして話しをする。すくわれていないのにすくわれた顔をして説法をする。

・道綽 『涅槃経』の専門 なぜ自分はすくわれていないのか
 道生 石に向かって一闡提でもすくわれると説いた。

でも三心がないとすくわれないと善導大師も法然上人もいう。
自分には虚仮不実なこころしかないという親鸞聖人
→100%の真実の心で修行した法藏菩薩。

三心の体は南無阿弥陀仏。聞其名号 信心歓喜 乃至一念。信心、疑いなく阿弥陀さんを信じるということは、わたしを絶対にすくうという法蔵の願いが南無阿弥陀仏となってわたしに聞こえたということだ。


わたしが呼ばれていることが信心。あらゆるひとが共に同じ信心を獲ているということか。自灯明法灯明、やっと自分にせまってくる。

今回、竺道生についてちょっと調べた。『涅槃経』を先読みして一闡提でもすくわれるのだと言って総スカンくらった人。石に向かってお説教したら、石が飛び上がって喜んだと。ああ、石はきっとわたしなのだ。そういうことか。
じっくり聞いてしまってあまりメモになってないな。