『誓願の不思議ー『歎異抄』第一条』 大峯顯 百華苑
これはすごくよかった。
「宗教」とはなにか
時を超えて今タイムリーな話だ。安倍元首相を銃撃した犯人が宗教二世であるということでいま新宗教に注目が集まっているが、それにとどまらず「宗教」自体に世間の目が向いている。大峯師は戦後に義務教育の中で宗教教育がなされていないのは日本と旧ソ連だけだと言及している。わたしはその中で育ったのだなと宗教を持った自分とそうでない周りの人との関係を思い浮かべながら自分なりに考えることがあった。
いまの社会にグサッとくるようなお話もある。
ただ信心を要としるべし
ああ、これを要約する能力がないので引用する。
「要」という字は、必要という意味じゃなく、肝要という意味、根幹、根本のことということです。それが無くなったらすべてが成り立たなくなるものを「要」と言っているのであります。しかし、これは、信心だけはこちらがしなきゃならんという意味じゃないのです。もしそうなら、信心がお助けの条件になります。浄土真宗は無条件のお救いだと聞いているのに、信心が要ると記されているではないか、というふうに思いちがいしないことです。信心をものを買うお金みたいに考えてしまって、お浄土行きの切符を手に入れるためにこの信心というお金を持っていかないことには売ってくれない、こういう具合に思いましたらこれは間違いです。「御文章」を読み間違うとそういう具合に受け取られやすいことがありますから、注意しなくてはいけないのです。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり
この「本願の尖端」がこの親鸞一人に向かってきたいたのだという驚きの表白とおっしゃる。「案ずる」は考えるなんて一言で終わるものじゃない自分の中の哲学的思索。そうだ。『歎異抄』がすごいのは読んでいたら自分が映って深く読めるところなのだ。表面をなぞっていても仕方がない。だから何度読んでもいいのだ。そのときの自分が映るのだ。
とりわけ後半がすごい。大絶賛しておきます。
購入は法藏館書店で出来ます。Amazonはなかった。