『教学は何のためか 『歎異抄』第十二条』大峯顯 百華苑
これはまた自分の痛いところを突かれている。自分が仏教書を読むのはなぜなのか。やっぱり正しいことを知りたいからだろう。そして間違っている人に間違っているぞ!といいたいからかもしれない。
教学ではすくわれないとわかっている人が本当に教学をしている人。まさにその通り。でも字面で拾ってしまうと教学なんてやらなくていい!になってしまう場合もある。またそれも違うんだよね。阿弥陀に救われるだけなのだということをわかるための道でもあるよね。
素敵な表現があった。
浄土真宗の信心とはいったい何ですかと言ったら、それが阿弥陀様の心とわたしの心が溶け合うという不思議のことです。私どもは我を張ってなかなか溶けようとしないけれども、有難いことに如来様のほうに我がないから如来様の慈悲の心に私どもの心が溶かされるんです。
自分の心、溶けてるかな。
現実のいろんな真宗で起る対立を見ていると、みんな一変十二条読んでから発言しようぜ!と言いたくなるな。自分も常に自分自身を省みていかねばと思う。
◆大峯顯師 百華苑シリーズ