如是我我聞

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『歎異抄』を読む「親鸞一人がためなりけり」(後序 その2)松原大致師

2022年2月5日(土)19:30~

『真宗ねこねこ法話会』歎異抄を読む「親鸞一人がためなりけり」(後序 その2)松原大致師

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・「親鸞一人がためなりけり」自分こそが救われるべきものだったという自覚。
業を他人に言うのはちがう。自分が思うこと。

身=実存。思っていることと実際が離れている。深いところにある阿頼耶識(親鸞聖人は使わない表現)。

・かたじけなさよ
なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる(西行法師)
日本人の宗教性「なんかようわからんけれども」

これは自分のわからないものに畏れと敬意を持つということかなと思う。

・二種深信 法の深信
     機の深信 

     人間の心で反省するというのではない。南無阿弥陀仏に照らされて
     自分の罪が明らかになってくる。
     「わたしは悪いものでございます」卑下

・感動する法話
 涙する話にフォーカスして阿弥陀さまの話を聞いていない。人情話に感動するのがいい話かどうか。それですくわれるのか。
・感動は信心なのか 村上速水師の本『親鸞教義の誤解と理解』


この本を自分をご縁で拝見することが出来たが、素晴らしい本だった。機会があれば読んでみて欲しい。※法話のYouTubeにある資料を参照されたい。

感動は信心ではなかった。
本当のお念仏に出遇った感動、体験はほんものかもしれないが、これこそまちがいないもんやと握ることがゆるされない。

・慚謝 二種深信を表す言葉。

同時性が表れている。すごい言葉だなと思った。

 

自分は信心をどうやったら得られるのかということを思わないのだけど、他の人ってどうなのだろうか。こういうお話に出てくる人のように悩む人の方が多いのだろうか。そういう方がいるのは知ってはいるが、自分がそうでないので正直分からない。そうならないのがダメなのかもしれないが。

今日のお話では、信心とはこういうものでは「ない」ということであったが、信心が何であるかがわからない。出てくる人が語る信心はその人には正解があるのだろうが、それがどういうものであるかがわからない。

 

◆法話に出てきた本

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◆『歎異抄』を読む

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