2022年6月19日(月) 16:00~
「曠劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし」(『高僧和讃』源空聖人【真宗聖典】498頁)
・和讃ーやまとことばによる歌
後白河法皇の今様、法文歌。親鸞聖人の前の時代から歌により伝える文化は出来ていた。
・曠劫多生:計り知れない長い間、生死流転してきたことをいう
⇒自分という存在のわからなさの深さと思う。自分でも理解できない。
・強縁:都合の良いことも悪いことも全部含めての縁。はたらきといってもいい。
⇒自分の都合でご縁を喜ぶというところは本当にそうだなあ。自分にとっての善し悪しですべて意味づけをしていってる。そういう自分に気がつくから最近はストレートなものいいもだめだなと思っているのだ。
・出離:生死というが、死は恐れるが、生きているということもわかってない。
⇒死を見て生がいまここに出てくるはずなのに自分は忘れがちなのであった。生きているが当たり前過ぎて。
・人師にであう
:自分は”師”と呼ぶ人はいない。いるのは法友だけである。たぶんそういうスタンスなんだと思う。結果的にそうなる人がいたとしても、法友であり善友である。
法話の感想は割とご本人に伝えるタイプである。
だがキャッチボールが出来ることは少なくなってきたような気がする。
それでもいいのかもしれないが。それこそ自分の中のよかれと思って出た言葉がまっすぐでないときがあるからかもしれない。
親鸞聖人の法然上人とのお出遇いのよろこびは比類ないものだとわかる。そのゆえに自分はどうだろうかとも思うのだけど、きっと同じような出遇いがあったとしてもきがつかずにいるのだろう。そして小さな自分の善し悪しの世界の中で都合の良い縁を喜ぶ、見いだすところが自分だなあとも思う。なにもいわないで留めるのもいいのかもしれないとも感じる。