2022年6月19日(日)13:30~
光明寺追弔会
「二河白道」瓜生崇師
二河白道の絵。
こちらの側は阿弥陀さまからみたら迷いの世界。
夢のような世界。
先日祖母の話をしていたら、ひさしぶりに祖母の夢を見た。もう26年前に亡くなっている。なぜか祖母の夢を見るときは、「死にたくなかった」と訴えられるシチュエーションばかりで正直心苦しかった。
このときの夢はそんなこともなく、祖母がいる雰囲気、優しさをそのまま思い出すようなものだった。これが続くものではないのだけど。ああ、夢の中でも自分の懐かしい思いは蘇るのだと思った。夢の中の時間は一瞬のようないままでもずっと続いていたような。
自分の人生も夢のようなもの。そうだなあ。夢であってもいいかな。いいのかもしれない。邯鄲の枕の話で思う。
いつ終わるかわからない人生。いつ来るかわからない死の瞬間。
自分が今死んだとしても、ある程度後のことは大丈夫にしている。誰かちゃんと処理してくれるように。
自分が死んだことを悲しんでくれる人はいると思う。でもわたしが死んでもこの世界が続いていくのかもわからない。これは自分の世界でしかないから。
本当のことを探して西に向かう自分。
たくさんの人に囲まれてもさみしい。家族も子どもいて、それでもさみしい。
独りでいる方が落ち着く。思ったよりさみしくない。
独りでいたら、比べることも少ない。本当の世界を知りたいと思っているとも思わない。のだけれど、それすらも哀しさから逃れるための思考停止なのだと最近思う。そうやっていかないと生きていけないから。
群賊悪獣悪知識。
そういうものに引っぱられる。誘惑じゃなくて現実的に社会に生きる中で無視できないものとしてある。
仏教を学んでいったら自分の姿が見えてくる。わたしの中にないありがたいという気持ち。浄土に往きたい気持ち。でも仏教を聞くのをやめるとはならない。この不思議。
自分もそうだなあ。なんで聞き続けているのかわからない。
直来。勅命。絶対落ちる「わたし」と絶対に護るという阿弥陀さま。この瞬間。すくいが関係なくなる瞬間。足を踏み出す瞬間。わたしを貫く南無阿弥陀仏。
瞬間の話を自分の言葉にすると違ってしまうなあといつも思う。自分でこれを反芻することは出来ない。ということは自分は絶対的に他者を必要としているということか。共に、の他者を。
◆二河白道