如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

心の記録 鹿野苑がブログを書く理由

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 なぜ自分はブログを書いているのか。

 自分のブログは浄土真宗の法話のお聴聞の感想(というかメモ)と仏教書、哲学書のレビューしかない。世の中のニーズからしたらほとんどないと思う。誰も宗教色のある(しかも自分の興味のない)記事を読む気にならないだろう。

 最初に書き始めたのは、単にブックレビューをしたかっただけだった。そのあと法話を聞きに行ったあと、自分の中から湧き上がる感情や疑問やそういったものをなんとか吐き出して誰かに聞いて欲しいと思ったのだ。いい映画見たら、感想言いたくなるような感じ。悪い映画みても、「これひどかった」って誰かにいいたい感じ。Facebookでシェアされて法話についてそんなこと言うな!と叩かれたのも今ではいい思い出ではある。そしてこういうのって言わないんだなというのもやってみて知った。本当のきもちって、現地で法話してる人や一緒に聴いてる人に言えないよなとも感じた。だって自分の心の柔らかいところの話だもの。

 そう思ってみると、自分はただ自分が宗教的思索、法話や本で出遇った自分の感触をなんとか言語化し残しておいて、後から自分で振り返りたいのだ。そのときの感触は自分しか分からないけれど、自分が残した記事をヒントによりリアルに思い出すことが出来る。これが最大の目的だろう。あのとき感じた自分を思い出したい。残しておきたい。 

 もう一つは、あえて宗教の範囲にある感情の吐露を世間に出していきたいというのがある。会社で「浄土真宗の門徒(信者)です!」といっても気味悪がられるか、無視である。なんもいいことがない。デメリットでしかない。それが伝統宗教であっても。オウム真理教、統一教会など社会問題を背景に、いまのこの日本の社会の中で宗教の存在というのが非常に危うい物として見られている感じがする。だが自分は宗教は人間が生きていくために必要な存在であると思う。無宗教がいい、宗教色を消した方がいい、そんな中で自分のブログはちょっと「キモっ」と思われるかも知れない。でも市井に生きる普通の会社員が浄土真宗の教えに遇って自分の心の中でいろんなことを思いながら生きているんだよと言ってもいいんじゃないかなと思ってやっている。

 内容が内容だけにコメントがつかない。でも毎日一定数の方が訪れてきてくれている。たまにお聴聞の場で「あなたが鹿野苑さんですよね」と声を掛けられることもある。自分の書いたものを見て、なにかを感じてくれる人がいるんだなと思うとうれしい。たくさんの人でなくていい。必要な人にブログを見て宗教的な感情を持っている人がいるんだと心の中で親近感や安堵の気持ちを抱いてもらえたらそれでいいかなと思っている。

 ようするにこれは自分の人生を振り返るメモなのだ。かといって、誰かに見てもらいたいという自己顕示欲が皆無であるとは言わない。見てもらえたらそれはそれでうれしい。そして、「宗教なんて」と忌避感があるこの状況がいいとは思わないので、淡々と宗教的な気持ちを開示していくのがいいかなとおもっている。匿名だから出来るのでもある。ただ、宗教心を持つことが人間にとって自然であると思ってもらいたい。宗教心は仏教に限らず、キリスト教やイスラム教もその他の宗教もそうである。どの宗教にいるかで差別もして欲しくない。ただ普通に生きていて、そういう心が備わっていていいんだと。なかなかこちらの方が難しい願いになってしまった。

 ということでお聴聞したこと、本を読むことで自分の中に起ってきたものをブログに残しているのである。自分だけがわかる暗号みたいになっているときもあるかも知れないが、まあそういうのでいいのだと思う。