浄土真宗の法話配信から
1984年 桐溪順忍和上(2)
本派の二種深信。
自分は最近の信心に関する法話がしんどいのだが(なぜなら話している人が最後は自分が十八願にいることを表明してる感じになるから)、桐渓和上のこのお話は、2席あるけどすごくいい。
自分が思っている、わかっている、いただいているというのは関係のないことだ。いわゆる神秘体験的なことは、あってもなくてもいい。関係がないことだ。
また晴れない自分の胸のうちを他人がどうすることも出来ない。お聴聞するだけ。
そして意図せずして「わかっている」になる人の話がまたこれいい。
なんで昔の和上の方々の法話はこんなにすごいんだろう。不思議でならない。
「自分は信心がいただけているのだろうか」
「自分はもう安心の身になりました」
というどっちのタイプの人も、是非ご視聴を。腹の底にガッときます。
ちょっとご著書をお読みしようと思います。
◆こちらは報恩講の由来からの話