本光寺 歎異抄を読む 第十一条(2)瓜生崇師
2023年9月11日(月)19:30~21:00
第十一条
「一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。」(【真宗聖典】『歎異抄』630頁~631頁)
誓願と名号、どっちを信じて念仏しているのだ?と意義を共通化することもなくマウントを取っている人のこと。
二つに分けることが出来ないというところを誓願と名号を明らかにすることで話していただく。
誓願は念仏するものを浄土に迎えとって仏にする
その阿弥陀仏のねがいによって南無阿弥陀仏の名号を称えさせてもらう
そもそも一緒のことであってべつべつのことでない。
信ずるという一点において、自分のこころを信じているに過ぎない。
今日は菩提心の話が自分に刺さった。
自分の心で悟りを求めていく心。これがないと仏教を求めていけない。法然上人は菩提心を積み重ねても救われることはないといった。それがわたしのすくいにはならない。
明恵上人はそれに対して激怒したけど、その自省から出る言葉はすごく共感できた。だって、それがなかったらわたしたちは求められないじゃないか。生きていけないじゃないか。そうやってすこしでもいいものになる気持ちがなかったら、仏法を聞く方に足がむかないじゃないか。でも、本当にそれが他者をすくいゆく菩薩の道を往く本当の覚悟かというと自分でわかるものはそんないいものではないとわかる。
自分が分かる菩提心というのはとても頼りないものだけれど、仏の菩提心は違うんだ。でもそれは自分ではわからない。難しい。
でもこの無上の心、関係ないって言われても、そうやって生きていくしかない自分のことを思う。そして自分以外の他者の無上心、菩提心はとても眩しい。眩しくてうれしくもなるし、そんなものなんだという残酷な心も起こるどうしようもない自分なのだ。
さらにことなることなきなり・・・までが今回かな。次回続く。