本光寺 歎異抄を読む 第十二条(1)瓜生崇師
2023年12月11日(月)19:30~21:00
十二条
「 一 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといえども、聖教の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらんひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。」【真宗聖典】『歎異抄』631頁
いやいやこれは自分のことなのである。好きだから、ガチンコの勉強をしている方には及ばないけれどもちまちまとお聖教を読んで「学んでいます」を醸し出していて、高みに立とうとしているのは自分なのである。そしてますます分からない感じになっているけれどもそういうことはあまりいわないでおこうというのも自分なのである。親鸞聖人にどうしようもないと思われているのは自分なのである。
結局自分の業として納得を求めているのだ。そしてそれを求めようとしているように見えない人(あくまで自分の主観での判断)に対して「そんなんでいいのかよ」という気持ちが湧くのである。
本当にいかんともしがたい。お話を聞きながら、ああ、この瞬間をもいかんともしがたいとちくちくした。
ここにこうやって懺悔のように書くことも本当は本意ではないんだ。ちょっとは言いものだと思っている自分。螺旋階段のように切りがない。