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本光寺 歎異抄を読む 第十一条(3)瓜生崇師

本光寺 歎異抄を読む 第十一条(3)瓜生崇師

2023年10月1日(月)19:30~21:00

shinshuhouwa.info

第十一条

一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。」(【真宗聖典】『歎異抄』630頁~631頁)

 

・「つぎにみずからのはからいを」から

当時日本に伝わったすべての仏教があった比叡山出身者が新鎌倉仏教を創っていった人たち。

 

大経十九願 

設我得仏、十方衆生、発菩提心、修諸功徳、至心発願、欲生我国。臨寿終時、仮令不与大衆囲繞 現其人前者、不取正覚。」(【真宗聖典】『無量寿経』18頁)

私が仏になりましたならば、十方の衆生と約束致します。菩提心を起こしなさい、そして諸々の功徳を修めなさい、誠の心になって浄土に生まれていきたいというこころを起こしなさい。そうすればあなたが死ぬときにたくさんの諸神と共に迎えにいきましょう。もしできなければ、仏には成りません。

 

たしかに十九願というのは今生きている自分の頑張りに応えてくれそうでわかりやすい。いいことしたぶん、いいことが待っている。

 

法然上人は、散善で行く先が違うというのがおかしいという。

善導大師は仮門という。門はくぐらないといけない。留まるところではない。

 

自分で自分の生き方は決められない。そこに尽きるような気がする。自分でいろいろ選んでいるようであって、さまざまなご縁でそうせざるを得なくなっている。大きな罪を犯した人を客観的に見たときにそういうことを思えるが、実は自分の人生の小さなこと、ひとつひとつのことだってそうではないかということを思わされる。

 

親鸞聖人は、観経の下品下生も方便であるという。

南無阿弥陀仏を条件に南無阿弥陀仏で取引をしている。=はからい

 

聞けば聞くほど自分は十九願と二十願に生きていて、そこを通らずには居られないのだということを感じる。重要だ。

次回、「信ぜざるども、・・・」からかな。

 

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