『宿業と自由『歎異抄』第十三条』大峯顯 百華苑
「宿業」という言葉。使い方を間違ったらいけないなと思う。なんでもかんでも他者との関係性を「宿業」のせいにしてしまうと話がおかしくなる。
一方で、自分をみつめたときにその有り様を「宿業」としてみるということは大切だと感じる。
最近、お会いしたくて会いに行った方がいるのだけど、その方とお話ししていたときに、自分の目を見て「縁ですね。」と仰ったときに、なぜだかその方と自分という相対したものではなくて、溶け合った一つのものを連想した。その方は自分がそこへ来た理由を聴いてそう仰ったのだ。「縁ですね。」ということばを聞いて自分の身がこうしてそこにいるのがどうしようもなく・・・あるのだなと感じた。
この本では「本願ぼこりと悪人成仏」のところで本願ぼこりのややこしいことばの捉え方を突き詰めている。自分はいつもだとあまり頷けない、阿弥陀さまにおまかせするという表現が、いろいろ自分のはからいまみれのところをちょっと突き抜ける感じで今日は意外とすんなり読めた。
言葉じりじゃなくて読んでいる自分の見に今ある感覚も読書には影響がある要素だなと思った。
煩悩具足の私に如来様のお心が届いたということです。煩悩具足の凡夫になんとしても自分を分からせたいというのが如来様の一すじのお心だから、必ず届くのです。必ず届く。
なんとも生のお声で聞きたいところだな。
◆大峯顯師 百華苑シリーズ