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本光寺 歎異抄を読む 第十一条(4)瓜生崇師

本光寺 歎異抄を読む 第十一条(4)瓜生崇師

2023年11月13日(月)19:30~21:00

shinshuhouwa.info

第十一条

一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。」(【真宗聖典】『歎異抄』630頁~631頁)

 「つぎにみずからのはからいを~」からの最後まで。

・計らい=信罪福心 について 名号を信じないのは罪福心による

最近のことだが、誘われて絵手紙の展示会に行ってきた。先生と生徒さんという感じの展示では会ったがみなさんそれぞれ味のある作品を創られていた。自分にはない領域の才能だなあと。
そこでモチーフとしてでてくるのが相田みつをなのである。まあ何というか、自分はみつをさんの詩が苦手なのである。実家のトイレに日めくりがある・・・。人生訓として好まれる向きがあるが、自分はそういうところで頷けないから真宗の道にいるのだ。どこまでも断じてすっきりしたり、よしあしをつけるところに落ち着きを求めているのだなあというのを感じるのである。人間はそういうのが好きなんだなあ、これが計らいかと思うのだ。絵手紙にそういう言葉がいっぱいあふれている。素敵な絵と共に。これがいい!と叫んでいるのである。

という体験を思い起こした。

「辺地懈慢疑城胎宮にも往生して」「果遂の願」とここから最後に掛けては十九願、二十願、と門をくぐり十八願へと続く道程を示してもらった。

いまここに届いている南無阿弥陀仏の話。

わりとお聴聞をしてきたと思うのだけど、最近自分で考えて分かったと思っていることほど頼りないことはない気がしている。なぜお聴聞なのか。必ず他者の話を「聞く」ことでしか聞こえんのじゃないかと思う。本で字面を追っているだけでは起らないことが起るんだと思っている。

 

さて、次は第十二条。

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