2023年12月14日(木)19:30~
長源寺 同朋学習会「無量寿経」(36)(瓜生崇師)
「三九 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、受けんところの快楽、漏尽比丘のごとくならずんば、正覚を取らじ。」(【真宗聖典】『無量寿経』上巻22頁)
・楽と苦 比較相対であり、本当は空(無碍、不二)である
だから煩悩を断ちきった修行僧と同じ快楽でということなんだな。
・初期の無量寿経にはなく、後で増えた願文
「四〇 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、意に随いて十方無量の厳浄の仏土を見んと欲わん。時に応じて願のごとく、宝樹の中にして、みなことごとく照見せんこと、猶し明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。」(【真宗聖典】『無量寿経』上巻22、23頁)
仏性の話があった。ちょっと自分がもやもやしていたところに一本の筋が見えてきたきがする。
(以下自分の思考メモ)
仏性というとなにかそういうダイヤモンドみたいな者がひとりひとりにあるように思ってしまうけれどそうではない。自分が流転輪廻してきた間にたくさんの仏の話を聞いてきた。仏にはなれなかったけど、それは自分の中に縁として残っている。
法蔵菩薩が全ての仏の願いを聞いて一切の衆生を救う願いを立てた。自分の中にはいままで聞いてきた仏の話=願いを持った仏の話が残っている。そして自分は自分が救われたいという願いを持っている。願いを持った仏の願い、自分がすくわれたいと思っている自分の願い(衆生の願い)をすべて見通して立てられた法蔵菩薩の願いという信心が仏性。まだ書きたらない感じがする。
次回四十一願から。