2023年7月13日(木)19:30~
長源寺 同朋学習会「無量寿経」(31)瓜生崇師
第二十七願
「二七 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、一切万物厳浄光麗にして、形色殊特ならん。窮微極妙にして、能く称量することなけん。そのもろもろの衆生、乃至天眼を逮得せん。能く明了にその名数を弁うることあらば、正覚を取らじ。」(【真宗聖典】『無量寿経』20頁)
無分別後得智がことばとなって分別の世界にはたらきかける。
だから自分が仏道を求めるようになる。はたらきがなかったら聞法をすることもないのだろう。阿弥陀の無分別、真如の世界は「自分を中心に世界を創らない」というのがまったく自分とは違うということだけはわかった。ここは自分が作り出した世界でしかない。
第二十八願
「二八 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、乃至少功徳の者、その道場樹の無量の光色あって、高さ四百万里なるを知見すること能わずんば、正覚を取らじ。
二九 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、もし経法を受読し、諷誦持説して、弁才智慧を得ずんば、正覚を取らじ。」 (【真宗聖典】『無量寿経』20頁)
「七宝講堂道場樹
方便化身の浄土なり
十方来生きわもなし
講堂道場礼すべし」(【真宗聖典】『浄土和讃』大経意33 481頁)
※方便化身の浄土 「辺地懈慢国なり、疑城胎宮の邪道なり」
という矛盾したことを感じるのだけど、結果自分という存在は、こういう目に見て頭で理解していいとか悪いとか考えることの出来るこういうところでしか求めざるを得ないということだ。それをすべてわかって如来の慈悲としてこの姿が説かれていると言うことか・・・。すべてわかって・・・。と、ここで「わかる」ということばを使うと人格化したようでまた違うと感じてしまうんだなあ。
なんだか納得がいかないようなことも、実はそういうものを通してしか理解できない自分の為にこのように現わしてくれているということ。親鸞聖人の「純粋さ」とはちがって方便を斜めに断じる自分がいる。どこまでもありがたく思えなくて、そんな方便で示してくれなくても理解できるのではないのかという尊大な自分がいるのに気が付く。こういうのはどうしようもないなあ。
次回第二十九願から。
◆長源寺