2023年10月12日(木)19:30~
長源寺 同朋学習会「無量寿経」(34)瓜生崇師
「三五 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、我が名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終わりての後、また女像とならば、正覚を取らじ。」(【真宗聖典】『無量寿経』上巻21、22頁)
女性が浄土に往くには、女性のみを厭うて男性となって往くということ。
そのまま読んで、ああそうなんですかという女性は現代にはいないだろう。煩悩に苛まれる自分を目当てとしてすくいがあるということなのに、なぜここで男性にならなくちゃいかんのだと・・・。男性じゃないと仏教は駄目なんですか?ということになりかねないところだ。
女人往生に関して女性問題的なところのお話になるかと思いきや、宗教という物にはかならず差別性が伴ってきたという歴史のお話であった。そのなかでこの女人往生の願を紐解いてみると、そこには当時差別の対象であった女性をなんとかお浄土にいくものとするために考え苦しんだ人たちがいたということなんだ。
名前があるから、差別が生まれる。
「男」と「女」という言葉があるから差別が生まれる。名前があるからそれが「ない」と言わなければならなくなる。
出家 と 在家
般涅槃 と 生天
菩薩 と 声聞・縁覚
一乗 と 三乗
どうやってもすくわれる側とそうでない側を作って行ってしまう。
LGBTQのこともそうなのかも知れないと思った。名前がついたから、なおさら区別して考えられるということがいい場合もあるし、そうでない場合もある。問題提起には一役買うが、実際の解決策の場合に区別が差別になる。
よかれと思っているんだ。本当に。なんとかいい方向にと思っているのだけど、当事者にしてみたら全然そうでないことがあるんだ。多角的にものごとをみるというのがいかに難しいか。いや、一切平等を自分の頭の中で構築することがどれだけ不可能なのか。
女性往生に留まらない、宗教が持つ差別性を自分のことに置き換えてどこまでも感じることとなった。