2023年11月16日(木)19:30~
長源寺 同朋学習会「無量寿経」(35)瓜生崇師
「三六 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、寿終わりての後、常に梵行を修して、仏道を成るに至らん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。」(【真宗聖典】『無量寿経』上巻22頁)
・十方無量不可思議の諸仏世界=阿弥陀仏の浄土以外
・菩薩衆=寿っぽい衆生
・梵行=清らかな行
・大悲の願 憶念 忘れないように心に留める
往生即成仏に関しては何回もお話を聞いて考えてみたい。一人で考えるとおかしなことになりそうなので。
「三七 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸天人民、我が名字を聞きて、五体を地に投げて、稽首作礼し、歓喜信楽して、菩薩の行を修せん。諸天世人、敬いを致さずということなけん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。」(【真宗聖典】『無量寿経』上巻22頁)
・念仏を喜ぶ 捨身往生もあった
親鸞聖人は歓喜踊躍できないからこそ念仏しかないのだと。自分を見つめていった先にあったこと。
「三八 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、衣服を得んと欲わば、念に随いてすなわち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。」(【真宗聖典】『無量寿経』上巻22頁)
・擣染(とうぜん):染め直し
・浣濯(かんだく):洗濯
仏法を伝えていて衣食住に困ることはないというのは経験者でないと言えないことだなと思う。なるほどなあ。
ここずっと十七願の話を聞いて思うことがある。招喚の声は常に響いているのにふとしたことに「それはあった」と過去を振り返ることでこじつけて考えがちな自分を思う。本当は今のことであるのに。こういうのもにぎりしめになるんだな。