如是我我聞

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韋提希が救われていく様は、自分が救われていく様なのだろう

  こちらはちょっとボリュームがあり、藤場師の観無量寿経の読み解きがしっかりなされている。

親鸞に聞く観無量寿経の意 サンガ聖典シリーズ

親鸞に聞く観無量寿経の意 サンガ聖典シリーズ

 

 

 リアル本はこちら。

 

親鸞に聞く観無量寿経の意 (サンガ聖典シリーズ)

親鸞に聞く観無量寿経の意 (サンガ聖典シリーズ)

 

  王舎城の悲劇で、自分は助かりたいと懇願する韋提希に対して釈迦の対応が本来の仏教の教えとちょっと違うというところ。しかしながら、進むにつれて韋提希に他者のことを思いやる心が芽生えてくる。

 本来、念仏を説くべきところを奏しなかったのは、自分が助かるスゴイ行を教えてくれと要望している相手に、「念仏あるのみ」と説いても、全く聞き入れないだろうというところからの、ある意味迂回した説法。

 これは仏説無量寿経(大経)で出てくる法藏菩薩が阿弥陀如来となることと対比して書かれているとのこと。なるほど。韋提希は凡夫代表ということか。対機説法とはこういうことか。

 ちなみにこの大経と観無量寿経の対比の話は、藤場師の本にはかなり登場してくるお話。他の本でも触れているが、この本が一番内容が濃い。

 非常に読みやすく、典拠もちゃんと本文として掲載されているので知識がなくても読めないことはないが、少なくとも観無量寿経の王舎城の悲劇のあらすじは抑えておいた方がいいと思う。

 興味深かったのは、「口称の念仏」。名号を称しているときは、意業が口業の方に「ひっぱられ」ていくので、行為が意識に影響してくるとのこと。

 悪人が今際の際に念仏に出会って救われるのは、

・嘘偽りが入り込む余地がない真実心(至誠心)

・素直に善友の勧めを受け入れたという信ずる心(深心)

・ひたすら往生を願う純粋な心(回向発願心)

の三心に出あうこと。ここでもやはりまずは南無阿弥陀仏を口にする事を勧められる。 

合掌し念仏申すということは、その人自身がどういう心持でいたとしても、阿弥陀仏に礼拝して賛嘆する相であるのです。その相に敬意を払いたいせつにするのが、御同朋・御同行と呼び合う念仏の僧伽なのです。

 やはり最後は念仏。

 じっくり読みたい人向け。