如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

終戦記念日に書き留めておきたいこと

 終戦記念日。

 父方の祖父母は私が話を聞ける年になる前に亡くなってしまったが、母方の祖父母から聞いた話を書き留めておきたい。

 

 

 祖父の話。

 祖父から戦時中の話を聞くことはなかった。聞いてもはぐらかして話さなかった。そんな祖父が癌になり、寝たきりになった床で、様子見の番をしている孫の自分に話をしてくれた。

 第二次世界大戦中は、衛生兵として東南アジアを軍隊と一緒に回っていた。たくさん歩いた。知らないところを延々歩いた。前線に行くことはなかったが、傷つき、亡くなっていく兵士をたくさん見送った。食料が少なくなると、みんな何でも食べた。蛇の味噌汁が忘れられない。あの時はぜいたく品だった。

 あるとき、敵兵と鉢合わせした。祖父は武器を持っていなかったので殺される!と死を覚悟したが、別の角度から味方の兵士が相手を銃で撃って殺した。自分は生き残ったが、敵兵は死んだ。自分が殺したと思った。

 祖父はこの話をしながら、だから戦争は…ということは言わなかった。辛いとか悲しいとかの感情を訴えることもなかった。自分の経験を話しておかなければならないと思ったのだと思う。ひたすらあったことを話していた。そしてそれを聞いた判断は、自分にゆだねられたのだと今は感じている。

 

 祖母の話。

 富山大空襲。1945年8月2日。富山市は空襲によって2,700人以上の人が亡くなった。富山大和(百貨店)以外、建物はなくなったらしい。焦土と化した。
 祖母は乳飲み子の私の伯母を背負い、兄嫁と一緒に神通川の土手にほぼ垂直にへばりついて焼夷弾から逃れるようにしていた。たくさんの人がそうして熱風を避けていた。少しでも離れると、熱風で焼けてしまう。熱い。熱くてたまらない。でも土手から離れると、確実に焼け死んでしまう。意識が朦朧としてきた。みんな苦しんでいたとき、一人の男の子が、土手にへばりついている人の背中が熱くなっているところに、神通川の水を掬ってバシャッと掛けてくれた。満遍なくみんなに、隙を見て掛けてくれる。熱いだろうに、一生懸命掛けてくれる。赤ん坊を背負っていた祖母は、その水をかけてもらって助かったと言った。
 空襲が終わり、その辺りにいた人は、奇跡的にみんな持ちこたえていた。
 水を掛けてくれた男の子はいなかった。みんな不思議に思った。土手にへばりついて顔を伏せていたのに、なんでみんな『男の子』だと思ったのか。見たような気がするという人も、全く思い出せない。現実主義者の祖母は、その『男の子』が神だ仏だとはいわなかった。でも、その『男の子』は絶対存在したし、みんな助かったのはその子のおかげ。と話した。

 その後、家の方に戻ろうとした祖母は、背負った伯母が息をしていないのに気がついた。咄嗟に兄嫁が、田んぼの泥水の上澄みの綺麗なところをガーゼに染み込ませて赤ん坊の口に含ませた。赤ん坊の伯母はなんとか息を吹き返した。一命をとりとめた伯母は、今も元気にしている。
 焼け野原の畑のじゃがいもが、いい具合に焼けていて、近所の人みんなで分け合った。少しずつ元の家のあったところに集まって、生活を建て直していく話。祖母にいっぱい聞いた。

 だいたいお盆のころは母方の祖父母の家にいつもより長くいて、祖母は自分と弟に添い寝して、毎晩戦争の時の話をしてくれた。もっと遡って、富山の日枝神社近くに住んでいた幼い時の山王祭や嫁に行って戻ってきた祖母の姉が病気で亡くなる話もしてくれた。物心ついてから母方の祖父が亡くなるまで、葬式がなかった。『死』というものは、祖母の話から教わったと今更ながら思う。祖母が話す、身近な人たちの死。自分の兄、姉、両親。自分は幼いながらに祖母の気持ちになって、悲しみを共有して聞いていた。それが今の自分に繋がっているんだなということも、今書きながら思っている。

 

 だから今の自分がどうするということを言いたいわけではない。自分が聞いた祖父母の話を、自分の子供たちにするだけだ。日ごろのニュースにあれこれいうよりも、自分が聞いた話を、事実として淡々と伝えることもいいのではないかと思っている。今自分がいるのは、少なくとも戦争の中を生き抜いてきたい人たちがいてくれたから。

 せっかくブログをしているので、自分の子供たちだけでなく、目に留まる人がたくさんいればと思う。

 どう思ったかは、ひとりひとりの心の中で。

 南無阿弥陀仏