如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

それでも死んでいかんならん、の問い(宮岳文隆師)

今日は非常に体調が悪かったのだが、どうしても行かなくてはいけない用事があった。そのまま帰るつもりだったが、出先の近所で法話があるので行くことにした。

 

 

講師は宮岳文隆師(日豊教区)。テーマは親鸞聖人が折に触れておっしゃったことで、歎異抄のプリントが配布された。

いいお話を聞いたので、すぐに大谷大学の図書館に行って、そのお話の文章を探してきたというエピソードがさらっとでてきた。ご講師自身が聞法者であることが滲み出るようなお話だった。

その中に、病により死を目前に控えた青年が、「死にたくない」ということに対して、「それでも死んでいかんならんのだろ」と僧侶が言ったら、念仏して亡くなったという話があった。この問いに対して、青年は何を思って念仏したのかという問いをずっと持っているという。言葉では表すことができないものがそこにあると。分別から離れられない身を痛感し、かつそれを越えたところにあるものに気づく。

「心の工夫ではたすからない この身でたすかるのだ」という和田稠師の言葉から、自分がいかに心の工夫をしているか、止められないか、なんともならない自分であるか。そしてそこに法蔵菩薩の願いが合わさる。ピタッとくる。一緒になる。と語られる。

ご自分の「分別」の表れ方のはなしをされているのだが、不思議なことに、ご自分の気持ちの例えがないのに、すっと同調できる。

 

 

昨日レビューを書いた鈴木大拙師の本にあった、霊性的自覚について、ご自分がお聖教やお聴聞した内容からお話を聞かせてくださっているのだなと感じた。信仰の話だ。

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

こうやって、お聴聞で聞いたお話を自分で文献や出典を確かめられて、さらに他の人に伝えるというのは、なんと素晴らしいご縁かと思う。もう今はお浄土にいらっしゃる先達のお話を時空を越えて聞かせていただいているという気持ちになる。

お聴聞されているみなさんの様子からも、ご講師の話に引き込まれる感じが伝わってきた。受け念仏というより、手を合わせる感じだった。

 

わりとご高齢の真宗大谷派僧侶の法話を聞かせていただくことが多いのだが、話術巧みというより、ご年齢とご経験により出てくる味がすごい。生死の問題が、現実的に近くなっているという事実もあるのかもしれない。四苦八苦を自身の経験も含め、見てこられたであろう。それを真摯にお伝えいただいている感じが相まって、静かな熱さのようなものをいつも感じる。これが伝えていくということなのかなと感じる。

 

今日は体調が悪いけど、お聴聞に足が向いたのは、このお話のご縁があったからなのだと思って帰ってきた。

 

南無阿弥陀仏