如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

『歎異抄』を読む 第一条 その三(瓜生崇師)

2020年8月4日(火) 19:30-21:40

瓜生崇師 (真宗大谷派 玄照寺住職)

真宗ねこねこ法話会

『歎異抄』を読むー第一条 その三ー

浄土真宗の法話案内

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弥陀の本願には老少善悪の人をえらばられず。

前半30分は前回の法話の質問コーナー。

”言葉が出ない人、お念仏が出ない人は救われるのですか?”

このお答えはぜひ聞いて欲しい。

 

その後一時間でこの一行。が、終わってない。

大きく取り上げた所は、『直来』。阿弥陀さまに救われるためのわたしを作り上げようとする。熱心にお聴聞して、勉強して、善いことをして、念仏をして、・・・浄土真宗の門徒はこういうもんですよっていうのを聞いて理想の念仏者像を作って自分を合わせていく。だから”ただちにこい”といわれたことと違う。

お聴聞して、「だめな自分」に気がついてそれをよしとする。自分の心をこしらえて助かっていこうとする。それはそれは「若存若亡(にゃくぞんにゃくもう)」。どこまでいってもふらふらするわたし。

 

言い当てられる。ドキッとする。

自分の心の中のことって、本当に止まないものであると痛感する。だから聞くたびにドキッとする。

 

刀葉林地獄(とうようりんじごく)の話。自分のみに引き当てられる話。地獄の風景は身に覚えのある風景。

自分が悪いものだから、聞法して善人になろうとしているのは、「直来」ではない。今のわたしに来いと言われているのに。自分の未来に阿弥陀さまと取引してこしらえた自分を見て満足しようとしている。自分のはからいでやってることをはたき落とされるのが「直来」。これが、選ばれずということ。

 

何回も聞いていくこと。

 

◆『歎異抄』第一条 その一

luhana-enigma.hatenablog.com

 

◆『歎異抄』第一条 その二

luhana-enigma.hatenablog.com