報恩講で買った教区発行の薄い本の紹介第三弾。
『聞法のあり方を問う』 二〇一五年度 高岡教区報恩講 池田勇諦師
池田師の報恩講での講話をお聞かせいただいたのだが、この本も対象となる問題がちょっと違うが、全体としては似ている内容なのではないかと思った。
聞法の姿勢として、他者と自己の自覚的関係性の中で聞いていくということ。「感謝して暮らさせてもらっております」というような言葉が出るものではない。それは自分の中に閉じこもっているもの。
救いについて。対人関係、様々な出来事に出遇ってゆく。これが歓信のご苦労だと。それが感じられると「よかった」と一瞬ひらめく。それが救い。これに出遇ったのが無駄ではなかったという世界が開かれる。この感じはとてもうなずける。
最後の
■恩に報いていく生き方とは
のところがどうしてもわからない。
嫁姑が喧嘩したという話から、国際社会の問題にいたりますまで、全部仏道の問題ですよ。その感覚を信心というんです。それは娑婆の話と、そう片付けるのなら全く仏法がわかっていらっしゃらないのじゃないか。何かそう申し上げたい。
この部分だけならいいのだが、ここには書かないが、やはり特定の政治勢力を否定する部分があり、この流れだとその考えに同調しなければ仏法がわかってないということになる。そこがどうもわからない。
先ほどこの部分だけならいいと言ったのは、考えた結論がそれぞれの人に任されればいいと思ったからだ。この娑婆においてイデオロギーを語るとどちらかサイドに行く。そうなると、逆の立場の人と対立することになる。仏教的にどっちがいいということに口を出すのは難しい。とくに、国際問題や環境問題などに関しては、判断するに至るまでにきちんと問題を理解する知識が必要だからだ。自分の経験だけに基づく感情論で意見することは何の意味もない。終末医療や、難病の方、貧困、自殺願望のある人などに対して受け皿になっていくならまだわかるのだけれど。これは自己に対する他者が今困ってる人そのものだからだ。
うーん。自分は全然わかってないようだ。社会性のある問題に関しては、匿名のブログであっても自分は意見を表明するほど勉強したり知識を得ているわけではない。やはり自分の生活の範囲、リアルで出遇ったことの範囲でしか何かをするということは出来ないなと感じる。自分も問い続けなければならないと思う。
◆親鸞聖人讃仰講演会 2019
◆池田師の著書ブックレビュー