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法蔵菩薩の願いとは(瓜生崇師)

光慶寺 正信偈講座(四)

http://m.shinshuhouwa.info/cal/week.php?a=6&w=-1

法蔵菩薩因位時~超発希有大弘誓まで。あくまでレジメ上・・・。

 以下、メモ。

・法蔵菩薩=因位   南無阿弥陀仏が私に届く=果位

 菩薩=私を救う願いを立てる人

 苦悩の有情である私をなんとか救おうと、何故私が苦しんでいるのか、根源を菩薩が見ていく=思惟→わかった→誓願(私を助けなければ私(法蔵菩薩)は助かりませんという大乗仏教の思想)→誓願が完成して如来(佛)となる。

【今回の主題】従果降因 果→因の方向で見る見方「法性を虚妄分別の私にわからせるために方便法身の法蔵菩薩が現われた」(法性が先)

 【私】虚妄分別の私たちはそれぞれ独りの世界にいる。どれだけ一緒にいようと、親子であれ夫婦であれ同じようにわかり合えることはない。世界を自分の好き嫌いだけで、自分にとってどうかだけでそれぞれが見ている。

 【浄土】真実の世界=大涅槃=法性=一切平等 こういったものを大海と現わしているが、姿・色・形がない。無分別の世界。→虚妄分別の身の私達は理解することが出来ない。

・世自在王仏は、自分の誓願なんだから自分で考えるようにいい、たくさんの仏国土を見せる(約210億)。そこで法蔵菩薩は、「いい人の世界は、そこにいていい人だけを選んだもの。分別を持ち込んではいけない」ときがつく。

 →誰でも救われるために仏名を称する国がいいと気がついた(法然上人の選択本願念仏集より)

そこからの誓願をみる。

十一願、浄土に来た人はすべて仏智に目覚める。

十二願、「仏国土」という言葉でいうと、その外の世界が出来てしまうので、枠を作らない(南無不可思議光)

十三願、方便法身として法蔵菩薩が現われたので、始まりや終わりのない浄土であるということ(帰命無量寿如来)

十七願、十方世界の無量の諸仏が声をそろえて称名することにより、阿弥陀様の仏国土だけでなくすべての仏国土に行き渡らせる

 →法蔵菩薩が南無阿弥陀仏と成りやってきた

 

虚妄分別の私達がわかることの出来ない「法性」を伝えるために方便法身として法蔵菩薩が現われてくださった。私達にわからせるにはここを言葉にするしかない。だから南無阿弥陀仏なのだと。

 

今日のお話しの中で一番大事だと思ったのは、「言葉がすべてを分け隔てる」ということ。言葉にした時点で、無分別の真実の世界を説明する事が出来ない。私達は常に言葉で区別をしていく。分別をしていく。ここから逃れることは出来ない。私達は言葉で説明できることを探していく。一方、浄土は区別することなく分け隔てることなくすべてが溶け合っている世界。説明する事が出来ない=理解することが出来ない。

無分別という理解できないことを、分別して無分別をが”ある”ことになる。鈴木大拙師の著作を思い出す。

途中、曹洞宗の方に「禅でこころがやすらぎますか?禅でどうなりますか?」との質問に、「禅に意味はない」と答えられたという話があった。意味や意義から解放された所に禅があるということだ。この無分別の体現が禅なのかと思った。

私達は浄土がわからない。でもわからないということでそれを存在させることが出来るような。うーん、言葉は難しい。でもそのわからないことをお聴聞で聞いていく。虚妄分別の自分も思い出すのだ。誰もが虚妄分別なのだ。日々の生活で忘れているけれども。

そして大峯師のお話。十七願についておっしゃったこと。姿・色・形のないものを言葉にするしかない。言葉で生きている私を目覚めさせるための南無阿弥陀仏(これは曽我量深師の言葉でもある)。生も死も、言葉で意味づけできないから生涯かけて問うていくのだということ。大峯師も鈴木師も著作の中でロゴスを突き詰めたお話しをされる。そういったギリギリの所まで言葉にこだわった方々のことを受け取られて瓜生師が今ここに伝えているという気がする。瓜生師の「なんて言ったらいいかな、」という言葉の後にそれがやってくる。本ではなく声でお聞かせいただくことなのだなと感じる。

 

■お話に出てきた大峯師の著書

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 ■今回のお話に近い概念が出ていると思う 鈴木大拙の著作

 

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 ■光慶寺正信偈講座 第2回

 

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 ■光慶寺正信偈講座 第3回

 

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