如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

わからない

2020年11月1日(日) 

本證寺報恩講 池田勇諦師

讃題:報恩は知恩にはじまる

youtu.be

 池田師の本がとてもよくて、何冊か読んだ。本当にいい。昨年の真宗大谷派の本山報恩講の讃仰講演会を聞いたのだが、どうしてもそれまでずっと聞けていた話が人権の話になった瞬間に全然聞けなくなってしまった。すごく不思議だった。
 なんとなくだが本山でのお話には、意図して入れなければいけない要素として社会問題がるのかなあと感じていて、一度はお話を聞いてみたいと思っていたのでYouTube中継はありがたい。本のように聞こえるのかなと思って視聴。

 結論を先に書いてしまうと、すべてがつながって聞こえる一瞬(自分独自の表現で申し訳ない)が、もう少しのところなんだけど、なかったのだ。
 前半のお話は、いい。どう表現するのが適切かわからないが、自分が真宗を聞いてきて、間違いのないお話だと思う。すごくいい。本のように。
 全体を聞いて、どうして自分が聞けないのかわからなくて、とりあえず3回聞いた。
 一つは、「真宗のお寺は稽古場、稽古場次第で本場所が決まる。稽古の様子であなたの本場所がわかりますと、仏さまはおっしゃるでしょうね。」というところ。
 ここへの違和感を感じる理由がいくつかあった。「教育」という言葉。いくら親鸞聖人が先生でその他は生徒であったとしても、教える内容が、「第十二条 本願を信じ、念仏をもうさば、仏になる」であり、そこで仏法に出遇うと必ず「変わる」、変わらせることを目的としている。「わたしたちは仏法にふれているけれども聞いてない。きいてないからわからない、変わらない。わかったらかわる。(中略)感覚、発想が変わる。」と断定されると、池田師ご自身が、多分そうなのだろうけど、「わかって変わった人」であって、自分の対岸にいる人になって感じてしまう。
「変わった」と身内がわかるというのであれば、それが判断されるものであることになる。しかも聴聞をする人が、仏法のご縁に遇うのが自分だけでなくて、他の人にも(子、孫など)伝えていく責任があるというお話だったが、「責任」っていうと、あるコミュニテイにおけるミッションという感じがする。重い。自分には重い。そこを目指さなくてはいけないのか?責任と言われると、それをしなくてはいけないという気持ちが起こる。
 そして、先生である親鸞聖人は、多くの人を自らが先生となり、「変える」ことを望まれたのだろうか。そこがわからない。

 あくまで自分の受け取りであるが、前半の法性法身のいいお話を聞いていて、どうしても池田師から「仏さまはおっしゃるでしょうね」という仏の視座の発言が出るのかがわからない。それは、われわれ衆生には計り知れないことではないのだろうか。
 そして教化のところだけれども、たしかに人に伝えていくと言うことは大事だと思う。でも「責任」という強い言葉を発することにより、それを「やらなければならない」というふうに捉える人がいるのではないだろうか。そして、自分は「やっている人間になる」という目的をもってしまい、「やった」と握りしめる。どうしてもそういうにおいを感じてしまった。
 我々は法友であっても、本当になにを考えているかわからない。お互いが自分の世界で悩み苦しみ生きている。でも池田師のおっしゃる射し込む一瞬の光、それは同じだという思いでたまたま同じ時代、同じ時間、同じ空間を共有したりしなかったりしているのだと思う。そんなわからないもの同志でも、差し込む同じ光が一緒かもしれないと思ったときにそれぞれの形で行動することがあるのではないか。
 それが知らない他の誰かを目覚ます様な気がする。「責任」を感じなくても。
 少なくとも、お寺には聞法の場をご用意いただきたいというのは間違いがないのだけれど。

 最後の質疑応答で、仏智か自我かわたしの立脚地を決めるということが聞法に求められているという。自分は仏智には立てない。昨年の讃仰講演会で本多弘之師が仏法と俗世の両方に片足ずつで起っているわたしの話をされていた。自分は仏智だけには立てない。片方ずつだ。そう思った。

 わからない。この話については、YouTubeを見た人にどうだったかすごく聞いてみたくなった。

 

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