如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

殺され続ける自分がいた

本好きの友だち二人がお薦めしていたので購入…したあと積読になっていた。

 

 ホロコーストについて、ドイツ警察予備大隊の隊員たちの証言をもとに客観性、信ぴょう性に重きを置きつつ、なぜそういうことが行われたのかということを検証している。

  淡々と、当時の警察大隊がどういった事情で編成されたのか、そしていかなる指令系統で命令が下され、それがどのように末端隊員まで伝わり、実行されたのか。そしてユダヤ人の虐殺がどう実行されていったのが描写される。

 最初の方、ユダヤ人を全員射殺することを涙を浮かべて説明するトラップ少佐。やりたくないものは名乗れという。そんななか、不器用に始まった「指令の実行」。そこには殺されていくユダヤ人と、射殺という行為を不器用ながらこなしていくドイツ人の描写が続くのである。辛い。読むのが辛い。何が辛いのか。自分だったらどうなのかということを考えると辛い。読み始めて二日目ぐらいにふと気が付いた。自分は、「自分がなんの正当な理由もなくユダヤ人であるというだけで殺されることを想像して恐いのだ。辛いのだ。」ということに気が付いた。「なんの正当な理由もなく」と書いたが理由があったらいいのだろうか。そういうことではないが、殺されても仕方がないと思えるなにかがないことへの恐怖だ。自分がそれまでの人生で積み上げてきたもの。作り上げてきたもの。得てきた能力。そんなものは命を長らえるためになんの役にも立たないのだ。いつも法話で聞いていることではないか。自分はこの本で死の表現があるだけの数、死ぬことを想像し、それを恐れた。

 もう一方で気が付いた。「殺す理由があったら殺してしまうかもしれない」ということに対して理解がある自分。それはわかると思う自分。ドイツ人の中には、職務放棄に近く、殺人行為に参加することを拒否する人たちがいた。自分だったらどうだろうか。人を殺すのは嫌だ。嫌だったら申し出ろと言われる。でももともとは国の命令だと。でも申し出てもいいといわれる。男としてできないといえば臆病者といわれ、仲間外れにされる。この後どんな不利益があるかということもあるが、この仲間と集団で行動していかなければならない中で、自分だけできないという勇気があるか。

 「理由があればいい」というのは、会社員としてそういう習性が叩き込まれているから。会社の方針に沿うものであり、上司が言うことであれば、従っていくべき。できないといったら無能であるということ。これは生死に関わることではないからいいが、でも基本的にこういう考え方が染み込んでいる自分に気が付く。コンプライアンスの問題があるので、法的におかしなことをさせられることなんて会社員にはない。でも自分の生き方に立ち返ったときに、こういう選択でいいのだろうかという場面に直面することはある。そのときに自分の判断基準はどうであろうか。そういうことも考えさせられた。給与をもらっている分働くだけ。でも全体のためにこうしたいという想いもある。そういう自分の気持ちに正直に行動できているだろうか。生きるか死ぬかのことを考えていたら、毎日の生活のそれくらい、真摯にやれよ!と思う自分がいた。

 最初は殺人に心を悩ませていた隊員たちが、次第に淡々と業務として行うようになる。それも人間がなんでもしでかす存在であるということをまざまざと見せつけられるようだ。それは、自分。

 殺す方の立場で考えたら、このようにいくらでも想像して言葉が紡ぎだされてくる。でも、殺される側を想像したとき、死の後はわからない。でも殺される自分には不条理しかない。なにも説明できるものは残らないのだ。恐ろしい、心底恐ろしいと思った。そして仏法を聞いていてもそうなる自分なのだなということを痛感する。 

 祖父が戦地で殺されかけた時の話を思い出した。祖父を助けるために同僚が敵兵を射殺した。祖父は助かった。敵兵は死んだ。そういうことが生々しく自分の目の前に浮かんできた。その時祖父が死んでいたら、自分は今ここにいない。正月に家族と話していた時に、自分と弟は祖父の戦争の話を最期よくきいていたが、娘である母はまったく聞いたことがなかったとのことだった。孫だから言えたのだろうかと思う。

 特筆すべきはこれは”増補”であり、初版から25年後にほかの研究者の発表と批判、年月を経て新たに出た証言、検証結果などを総合して再度実態を明らかにしている。一回書いたから終わりではなかったのだ。どうしてこのようなことが行われたのか。人間は恐怖で支配されなくとも、時に残酷な集団となりえるということを社会的実験からも検証をしているところがすごい。もう二度と繰り返さないために。忘れないために。

 開館間もないベルリン・ユダヤ博物館に行ったことがある。こういった書籍を読んだ後に行くべきだったと悔やまれる。

 正直自分は戦争がどういうものであったのかということを歴史の授業と何冊かの本と、祖父母の話からしか知らない。そして読んだ本がどういった立場で書かれたものかも気にせず読んでいたと思う。これからは自分がこの世界をどう見ていくかについて、歴史を客観性をもって振り返る本を読むように心がけたいと思う。

 ユダヤ人が、ドイツ人がということではなく、この本を読んで自分は殺され続けるのか、殺し続けるのか、ぜひ確かめてほしい。

 

◆自分が聞いた祖父母の戦争体験

 

luhana-enigma.hatenablog.com