如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

聞其名号ー親鸞聖人和讃をあじわう(瓜生崇師)

2020年3月6日(金) 19:00-20:45 赤野井西別院

「親鸞聖人和讃をあじわう」瓜生崇師

http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=47257

 今日は消化必須の有休だったので、もうほとんど絶滅かと思われたが奇跡的に開催されているこちらの法座へ。

 

浄土和讃(真宗聖典 P478)

弥陀の名号となえつつ

 信心まことにうるひとは

 憶念の心つねにして

 仏恩報ずるおもいあり

誓願不思議をうたがいて

 御名を称する往生は

 宮殿のうちに五百歳

 むなしくすぐとぞときたまう

 

 「信心は一つ」のはずなのにわたしたちは心の中で一人一人違うことを信じたり、勝手に何かをこしらえてしまう。

 わたしたちが思い描く浄土というのは、見たことも聞いたこともないのに、自分が期待する世界を描いてそれを信じると言っているにすぎない。「仏法を信じない」ということは聞いていけば破られるが、「自分は阿弥陀様を信じています」「自分は救われています」という自分の思いを信じているというものはなかなか破られない。(化身土の巻は全体の1/3を占めているのに、みんな自分は大丈夫と思って読まない)

 観経で、定善十三観で最終的にはわたしの信心は間に合わないということを説かれる。定善の最初の部分は、できると思うのに、途中から急に難解になってしまう。韋提希は自分が阿弥陀様に遇えたのは仏の力である、自力では無理であるという。

 「お浄土がある」というと、「あなたが思っているだけでしょう」といわれることがある。でもこういう法座、お寺には、「お浄土があってありがたい」という人しかいない。「ありがたい」といわないと、ありがたさが減っていくからいうのである。ありがたがることで、自分の心に救いを閉じ込めていく、

 わたしたちは物事を分別することでしか生きていけない。お浄土は一切平等の世界。わたしたちの心にのらない世界なのだ。

 散善では、生きざまによって行くお浄土の世界が分かれていく。一人一人の生きざまは全然違うので、結局行き先がみんな違う、ひとりぼっちの世界でしかない。分別によるひとりぼっちの世界。

 観経は、表では、善人になって生きていきなさいというようなことを言い、本当は自分の思い通りにならない、迷いから出られないということを表している、観経には名号が出てこない。名のみ。「いわれた通り定善したので救ってくれますよね」という阿弥陀仏との取引となる。疑いがある。

 法然上人は観経を中心としたが、親鸞聖人は綽空(道綽、源空)という名から、親鸞(天親、曇鸞)に改名した。天親は浄土論、曇鸞は浄土論註で大無量寿経を重んじる。これを教行信証でもの真実の経としている。

 大経十八願の肝要なところは成就文。

 「聞其名号」

 法蔵菩薩は、「あなたを呼び続ける」という。そして諸仏がその名を呼ぶ。

 →聞即信 南無阿弥陀仏が私に届いたということが信心なのだ。

 わたしはなにもこしらえたり、信じたりしていない。南無阿弥陀仏が、届いているという事。

 暗闇の中にいるわたしたち。聞こえてくる波の音。暗い無明の闇。光があるから闇を知る。わたしたちは真っ暗なところにいてひとりでいるということを光によって知らされるのだ。

「聞其名号」

 私に届いた。そう握りしめたらまた迷っていく。ぐるぐるするけれども、それなのだ。

 ただのお聴聞ノートの公開になってしまった感。でもこのお話しを聞いていて、自分は思うことがなかった。「思う」隙がなかった。

 

 ◆最近の瓜生師の法話
luhana-enigma.hatenablog.com