如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

自分に深く遇っていく道だけがある(高柳正裕師)

友人に誘われ、某日、高柳正裕師の勉強会に参加した。

個人の方が民家でやられているもので、最初お伺したとき、来てよかったのだろうか・・・と一瞬思ったが、とてもすばらしい時間を過ごさせていただいた。

 響流書房での本を一冊読んでいったのと、お聴聞の情報をくれる人たちから、鹿さん、一回聞いたらいいよといわれ、たまたま友達が誘ってくれて、初めてお聴聞出来たのだった。

お話は、ストーリーに沿って進むというよりは、高柳師が話しているうちに次ぎに頭に浮かんだことを話しつないでいくという感じだったが、全然唐突感はなく、終始一貫した「自己とはなんぞや」ということをあらゆる事柄からお聞かせいただいた。

このお話は、まとめても全然意味をなさないと思うので、書きとめたことを。

・「よかったね」は一番あかんこと。

何気なく日常で使っている言葉だけれど、「よかったね」というと、必ず「よくないこと」があることになる。衝動的に判別してしまうことは止められない。

・体験を握ってはだめではなく、なぜ握るのかを見る。

参加者の「体験」について、握ってしまうのはなぜかということに焦点を置くことを言われた。それ自体ではない。

午後からも法話があるはずだったのだが、思いっきりすべて座談になった。高柳師のスタイルなのだろうか。内容は伏せるが、座談で家庭のことをポロッと、おっしゃった方への深掘りがすごかった。その人が考えないようにしてきただろうことをどんどん掘り起こしていく。いいとか悪いとかそういうものではない、向き合う時間に立ち会った気がした。

 

自分も質問の機会をもらった。

この日の高柳師の言葉で、「むなしいがあるから求めずにはいられない」というのが自分のひっかかりだった。

「自分は1年ちょっと法話を聞くことを続けています。でも自分ではものすごい苦しみや悲しみがあって、何かを求めずにはいられないというものではない感じだと思っています。特になんでもないサラリーマンです。でも法話を聞きに来てしまいます。自己とはなんぞやという言葉も聞いて、自分はこれを聞いていくのかと思ったのですが、自分はこういう風に聞いているのでいいのでしょうか。質問にならなくて申し訳ないです・・・。」

ということを発言した。でもまあ、そのときの正直な言葉だった。「何かを求めずにはいられないというものではない」という言葉を吐いて、ああ、違うとも思った。それは言えない自分の中のことだけれど、「ある」のだ。それを言葉にしないのは自分だ。向き合わないのは自分なのだ。

汝自当知   床の間に掛け軸があった。このことだ。

さっきの座談は、他の方の深掘りであったけれど、それは自分にも向けられたものだったのだ。高柳師は、「無理に聞いていくことはなくてもいい」とおっしゃった。それは先ほどの深掘りに比べたら、なんの変哲もない回答かもしれないけど、この普通の回答が今日の話で揺らいでいる自分にとっては見透かされたようにすっと入ってくるものだった。

 

一緒にお聴聞をした友達と話をしていたが、高柳師と瓜生師のお話は似ている。似ているといっては失礼かもしれないが、苦しみをもって求めた人の共通する何かがある。瓜生師の勢いと、高柳師の静けさはまったく正反対かもしれない。でもそれはきっと、「本当のこと」「真実」を語るときに、仏教という我々が思う枠からはみ出るではない、あふれる、こぼれるという方がいいだろうか。そういうものが感じられるからのような気がする。光かもしれない。

 

◆高柳正裕師の本