如是我我聞

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『歎異抄』を読む 第一条 その四(瓜生崇師)

2020年9月2日(水) 19:30-21:10

瓜生崇師 (真宗大谷派 玄照寺住職)

真宗ねこねこ法話会

『歎異抄』を読むー第一条 その四ー

浄土真宗の法話案内

http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=52350

 

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 法蔵菩薩もわたしも同じ名前になって救われていく

南無阿弥陀仏

阿弥陀さまがわたしを呼ぶ名前

南無阿弥陀仏を称えるのは、阿弥陀さまに呼ばれている証。

念仏もうさんとおもいたつこころの起こるとき

おもいたつこころの起こるとき

わたしにうまれようのないものがうまれた

阿弥陀さまの呼び声がわたしに届いた

わたしが称えたか、称えないかは重要ではない

その人に合う形で現われる南無阿弥陀仏

 

何度でも繰り返し聞いていくところ

800年の浄土真宗の歴史はわたし独りに南無阿弥陀仏を称えさせるため

これにつかまった

とてつもなく大きなものに捕まった

わたし独りの世界にいるわたしにはそういう風に思えるということ

すべてはわたしのため

 

休憩の後の法話について語られているところ。是非。

 

どんなに法話を聞いて、善悪に生きるしかない人間であることを知らされたなあとそのとき思っていても、実際の生活の上では善人になろう、自分が正しいといって生きている自分。結局これが苦しみだというのはわかっているけど、善人になろうという気持ち、自分にはそれができるという奢りがなくては生きてはいけないところがある。でも聞いたらそれこそが苦しみであるということを思い出す。ぐるぐるする。でもまた聞いてしまう。聞いて、この身はそれを思い起こされ、ハッとさせられるのを望んでいるんじゃないか。自分の意識ではわからないけれど。そんなことを最近思う。

 

◆瓜生師の『歎異抄』を読む 第一条

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