如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

「愛するということ」は技術である

『愛するということ』 エーリッヒ・フロム 鈴木晶訳 紀伊國屋書店

 こちら今回読んだ新版

愛するということ

愛するということ

 

 こちらは昔からある方。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 新訳が出たが、表現をわかりやすくした模様。それだけなんだけど、やっぱり好きだから買ってしまった。

 久しぶりに読んだ。まったく新しい本として読めるという事実に驚いた。そしてかつて気にしていたところとまったく違う視点で読んだ時にその内容の深さに震えた。

 「愛するということ」は、技術であり、自分を愛することができなければ他者を愛することはできない。そしてこれは習練すべきものだ。

 学生の時に読んだのは、哲学専修の人からこういうのもいいといわれて読んだ気がする。そのときは、「愛するということ」というテーマがちょっと気恥ずかしい様に思っていたが、内容が全然そういうものでなかったことに驚いていた。

 社会人になって。親になって読んだ時は、親子の愛のところばかりが気になった。自分の子供の頃を思い出し、自分はどうだったろうか、そして自分の子供に対してどうだろうかということばかり読んだ気がする。

 30代後半の頃。この本が好きだという友達と会った。「愛するということがわからないから読んでみたけど、技術を磨くというのは自分には難しいなあ」と言っていた。数年後、その友達は自分の前からいなくなってしまった。仏教に出遇うきっかけになった。

 真宗の学びをした今読んでみた。「神への愛」を何度も読んだ。何でも受け止めてくれるあたたかさ、包み込む母性愛の宗教から、強く導き誡めも与える厳格な父性愛の宗教へと発展していく。その過程で人間は神に人間の姿をさせてしまう。個人の成熟により、ほとんどの人は人格の発達において、この幼児的な段階を脱してないと断じている。我々は父性愛の宗教止まりなのだと。

 キリスト教なので「神」と言う表記になっているが、これを「真如=阿弥陀仏」ととらえると、言葉で肯定的に表すことができない。すべて否定、~ではないでしか表せない。われわれは何かを願って祈ったりしないし、阿弥陀仏に対していっさい何も求めない。子供が父や母を愛するように阿弥陀仏を愛したりしない。そういう人は自分の限界を知るだけの謙虚さを身につけている(機の深信)。自分が真如について何一つ知らないことを承知している。

 もうひとつ。「感傷的な愛」の説明。映画や小説での感動で自らの経験を補い、投射でごまかしているということ。ヒューマニズムの感動で麻痺する愛。これは法話を聞いていても感じる。ヒューマニズムと阿弥陀の救いは違う。

 ブーバーを読んだ時のように、何回も戻って読み直した。何度も読んでいるはずなのに、新しい発見をさせられた。

 最近、哲学書を読むと仏教との近さとまたその壁を感じる。本当のことを求める所は一緒。そして言語という限界ある手段で進むのも同じ。自分は法話でその先を聞いている気がする。言語の限界は場で超越しているのかもしれない。