如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

最近「聞くこと」について思うこと

 お聴聞に行く回数が減った。

 というか、新たに聞きに行くことが減った。

 物理的なことにもなるが、仕事が非常に忙しく、体調も思わしくないがために自由になる土日は体力回復しないともたない。

 「時間がないからいけない」

のかといわれると、なんとかして行っている法座もある。

 お聴聞を始めてから何度か「聞きたくない」というのはあった。でもそれはそのときだけで行ったらそんなのわすれちゃったとか、あって数日という短い時間の問題だった。

 今回は2ヶ月以上続いている感じがする。今年に入ってからいろいろあって、それがこういう形で現われてきたのだろうか。自分ではわからない。でも確かになんか重い石のようなものが胸の奥につかえている。みえないしさわれないけど、なんかある。

 かつて「たくさんの人の話を聞いた方がいい」とアドバイスされ、馬鹿正直にやっていたのだが、途中で自分の特性というかタイプからするとそういうものではないなと強く感じてやめた。でも時間があればいけるところに出向くくらいのフットワークはあったのだけど、最近はそうもいかない。コロナと時間の制約以外にある、自分の中の重い石。

 仕事が忙しいと、頭の回転が速くなってなんでも判断がパッパッとできるような感じになる。最近はそれがずっと続いている。ある種の緊張状態。その中でいろいろ葛藤が起こっては消える。上手くは言えないけど。まあなんというか、自分の分別力万歳みたいな状態になる。これが正しい!ですべて進めていく感じ。相手がいたらビジネスだから非常にクールな対応になることもある(クールってかっこいいの方じゃない)。そういう風にガンガン仕事をしている自分は、聞きに行く場に行きたいけど行けないみたいな感じかな。いまのこの自分がだめだと思ったらやっていけなくなる。という危機感がある。そんなのは自分が勝手に思い込んでいるだけで本当はないのかもしれないけど。

 

 言い方が悪いかもしれないけど、仏法を喜ぶ「ありがたい」話を聞いたら、本当かよって思うような今の自分がいる。それは客観的指標で証明できるのか。仕事脳が止まらない。そういう風になる自分が嫌だ。でもこのモードがないと、仕事にならない。ご飯を食べていけない。生きるってめんどくさい。

 

 なんとかしたい。でもなんとかする必要があるのかな。これが自分のデフォルト環境なのかもしれない。このままなのか。これは結構辛い。でも、前に進むことはできる。かろうじて。かろうじて。

 

 最近思う。自分の人生の時間は、次の瞬間に終わるかもしれない。でも生きていくために仕事はしなくてはならない。仕事に寝食住、それ以外の時間。それ以外の時間は、もう限られている。読める本も聞けるお話の時間も。「こうしなくては」と自分を縛ることなく、「こうしたい」に従って読む本も聞く事もしていったらいいかなと思う。きっと出遇うべきものには出遇うんだ。自分の思いは関係なく。