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本光寺 歎異抄を読む 第十条  瓜生崇師

『歎異抄を読む』第十条 

『歎異抄を読む』 第十条 本光寺 瓜生崇師
2023年7月10日(月)19:30~

shinshuhouwa.info


第十条
「 一 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまわりしかども、そのひとびとにともないて念仏もうさるる老若、そのかずをしらずおわしますなかに、上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々の子細のこと。」(【真宗聖典】『歎異抄』630、631ページ)

「無義をもって義とす。」法然上人の言葉
何をするにしても心の天秤ばかりで判断しているわたし。
計らいはお念仏にも適用する。
→一生懸命にお聴聞して真剣にお念仏することで計らいの中で見て行く。

・親鸞聖人がなぜ法然上人と一緒に流罪になったのか実は不明。
・親鸞聖人が教団を作ったのは関東のみ。越後はない。

一念義(幸西)と多念義(隆寛) 親鸞聖人はどっちでもないという立場。問い自体がおかしい。

どっちでもないことをどっちかにしたいわたしたち。

結局自分は言葉に出さなくても自分の中のはからいで「こっちがbetter」ってやっていると思う。はたらきだと言ってもその元はこうだということも勝手に意味づけしてしまう。
自分が仏教を聞いている今は事実そうでしかないのだけど、そのあゆみ自体に意味づけをしてしまう。恥ずかしくなる。自覚できるような原因でもなんでもないんだ。もっときっと大きなはたらきなんだろう。
造悪無碍と廃悪修善 どっちがいいかと考えるが、計らいを超えたものである。

神秘体験のようなものを握りしめることはなんの意味もないと言われる法然上人と親鸞聖人。わたしがなにかして仏に近づいていってなるのではない。仏の側からのはたらきに気が付く「順彼仏願故」。

昨日大峯顯師の第十条を読んだばかりなので、たたみ込むように「無義をもって義とす。」が入ってくる。これって中道だし、言葉に出来ないことをなんとか「言って」いるわけだよな。お聴聞が必要だと真宗で言われるのは、これに尽きる気がする。言葉で言い尽くせないから。そしてつねに自分は、どっちがいいのかを考えることをやめることが出来ない。出来ないのだ。止められない。だから聴き続けないといけないと思うのだ。

次回、もうちょっと自然法爾章聞きたい。

◆本光寺『歎異抄』を読む

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